久保田城
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この項目では、秋田県秋田市の城跡について説明しています。千葉県袖ヶ浦市の城跡については「久保田城 (上総国)」をご覧ください。

logo久保田城
秋田県
久保田城 御隅櫓(模擬PC造)
別名矢留城、葛根城、秋田城
城郭構造平山城
天守構造なし
築城主佐竹義宣
築城年1604年(慶長9年)
主な城主佐竹氏
廃城年1880年(明治13年)
遺構土塁、堀、門、番所
指定文化財秋田市指定名勝:千秋公園(久保田城跡)[1][2]
秋田市指定有形文化財:御物頭御番所[3]
再建造物模擬本丸新兵具隅櫓、本丸表門(木造復元)
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度43分24.53秒 東経140度7分23.67秒 / 北緯39.7234806度 東経140.1232417度 / 39.7234806; 140.1232417
地図 .mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}久保田城秋田県の地図を表示久保田城出羽国の地図を表示
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久保田城(くぼたじょう)は、秋田県秋田市千秋公園近辺(羽後国、旧出羽国秋田郡久保田)にあった日本の城史跡指定はされていないが、「千秋公園(久保田城跡)」として秋田市指定名勝に指定されている[1]。また日本100名城の第9番に選定されている[2]
概要本丸表門(木造復元)御物頭御番所(現存/秋田市指定有形文化財

久保田藩佐竹氏の居城である。矢留城、葛根城とも呼ばれている。江戸時代後期から明治時代の公式文書では「秋田城」と書かれることも多かったが、古代に出羽国府が置かれた秋田城とは所在地ともに別の城である。名勝としての指定名称は「千秋公園(久保田城跡)」であり、「久保田城」が公式に使われている[1]

雄物川の支流である旭川の左岸、程野村窪田[注釈 1]にある神明山(しんめいやま、標高40メートル)に築かれた平山城石垣は基底部に僅かにあるのみでその上に土塁を盛られており(鉢巻土手)、天守も持たず塁上に「出し御書院」(だしおしょいん)または「御出書院」(おだししょいん)と呼ばれる櫓座敷を建ててその代わりとし、他に8棟の櫓を建て並べていた[4]。石垣が無いのは幕府に遠慮したためと言われるが、佐竹氏の旧領常陸国を含む東国ではもともと石垣を用いない築城法が一般的であったため、石垣作りに精通した者が家中に居なかったという説もある(但し後に江戸城の修築を命じられた時、佐竹氏は石垣の普請も担当している[5])。いずれにせよ、山川沼沢を巧みに利用し防御を図っており、水堀や円郭式城郭など西国の様式も採り入れられている。なお天守については、寛永10年(1633年)の火災以前には天守に相当する「御三階櫓」があったという説があるが、この時期の城内を描いた絵図などは残されておらず、確証は得られていない。

1880年(明治13年)の大火で城内の建造物はほぼ焼失しており、市街再建の過程で堀の多くも埋め立てられ、城下の中通を中心に秋田県初期の官庁街へと変貌した。現在、久保田城本丸・二の丸一帯は千秋公園となり、三の丸にはあきた芸術劇場ミルハス秋田市立中央図書館明徳館、秋田市文化創造館、平野政吉美術館秋田県立循環器・脳脊髄センターなどが整備されている。秋田県知事公舎は三の丸御殿の跡地に建てられている。

城郭に関する建造物としては、前述の大火を逃れ、かつ解体も移築もされなかった御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)[注釈 2]が現存し、市の有形文化財(建造物)に指定されている[1]。また本丸新兵具隅櫓(御隅櫓)[注釈 3]が再建されていて、本丸表門[注釈 4]も木造復元されており、松下門・黒門についても木造復元計画がある。移築された建造物としては、焼失を免れた裏門が楼門から平屋へと改修を受けた上で旭北寺町の鱗勝院に現存している。
沿革
江戸時代以前

神明山には安東氏秋田氏)配下の三浦氏(川尻氏)が所在し、氏神として総社大明神・神明宮・別宮攝末社を奉っていた[6]。三浦氏の城は「鎗留ノ城」「矢留ノ城」と呼ばれ、久保田城の別名の由来になっている[7]。また、神明山の名も神明宮に由来する。更に古くは、大嶽山・小嶽山・光明山の3つの頂がある様から三森山(みつもりやま)または三嶽山(みたけやま)と呼ばれていた[8]
江戸時代古絵図 1644年

1602年慶長7年)9月17日 - 久保田藩初代藩主である佐竹義宣、秋田氏の居城であった湊城に入城。矢留ノ城には重臣の石塚義辰(大膳)が入り、「大膳屋敷の山」とも呼ばれるようになる。湊城は平城で防衛に向かないうえ、54万石規模の家臣団を抱えていた佐竹氏にとって秋田氏5万石(ほか蔵入地2万5000石)の城は手狭であり、これが久保田城築城の理由となった。

1603年(慶長8年)5月 - 梶原政景渋江政光を普請奉行とし、神明山に新城を築城開始。同時に城下町と徳川家康が推進していた主要道の整備も行う。三森山神社は川尻村下浜(現在の楢山川口境)へ遷座したが、低湿地のため神地には不向きで、1694年(元禄7年)に川尻村上野岱へ再度遷座、1707年(宝永4年)9月6日に社殿造営し本遷宮。1912年(明治45年)に3社を合祀し総社神社となった[6][9]

1604年(慶長9年)8月28日 - 窪田城本丸竣工。湊城を破却し窪田城を本城と定める。また、年内に周辺他藩へ通じる主要道が完成。

1607年(慶長12年) - 内町の町割(第一期)が開始。三の丸と中通廓が新設される。外町の町割もこの頃開始されたと見られる。

1619年元和5年) - 内町の町割(第二期)が開始。中通廓が割直しされ、亀ノ町廓が新設される。

1629年寛永6年) - 内町の町割(第三期)が開始。楢山・保戸野・手形・川口の侍町が新設される。

1631年(寛永8年) - 鍛冶町と馬口労町を結ぶ道を新設し、大町筋を通町から馬口労町まで貫通させる。街道(羽州街道)を茶町筋から大町筋へ変更する。

1633年(寛永10年)9月21日 - 本丸全焼[10]。藩主義隆は三ノ丸下中城の渋江光久邸を仮殿とする。

1635年(寛永12年)12月15日 - 修築[10]

1647年(正保4年) - この年に描かれた「出羽一国絵図」にて初めて「久保田城」と表記された。「窪田城」から「久保田城」への改称時期は1633年(寛永10年)から1645年正保2年)にかけてと推測されている。


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