久保田万太郎
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久保田 万太郎
(くぼた まんたろう)
1955年
ペンネーム千野菊次郎
誕生1889年11月7日
日本東京府東京市浅草区
(現・台東区
死没 (1963-05-06) 1963年5月6日(73歳没)
日本東京都新宿区信濃町
墓地 日本喜福寺
職業小説家劇作家俳人
言語日本語
国籍 日本
教育学士文学
最終学歴慶應義塾大学文学科
活動期間1912年 - 1963年
ジャンル小説戯曲俳句
文学活動江戸文化
歌舞伎評論
新派
代表作『末枯』(1917年)
『大寺学校』(1927年,戯曲)
『道芝』(1927年,句集)
『花冷え』(1938年)
『市井人』(1949年)
『三の酉』(1956年)
主な受賞歴菊池寛賞(1942年)
読売文学賞(1957年)
NHK放送文化賞(1951年)
文化勲章(1957年)
従三位勲一等瑞宝章(没時叙位叙勲)
デビュー作『浅草』(1912年)
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久保田 万太郎(くぼた まんたろう、1889年明治22年)11月7日 - 1963年昭和38年)5月6日)は、日本の小説家劇作家俳人。俳号はじめ暮雨。のち傘雨[1]。他に筆名千野菊次郎。

浅草生まれ。耽美派三田派)の新進作家として登場。劇作でも慶大在学中から注目され[2]、築地座を経て文学座創立に参加。新派新劇歌舞伎の脚色・演出と多方面に活動を展開[3]日本演劇協会会長を務め、文壇・劇壇に重きをなした。小説戯曲共に多くは浅草が舞台で、江戸情緒[4]を盛り込んだ情話で長く活躍。文人俳句の代表作家[5] としても知られ、俳誌「春燈」を創刊・主宰した。芸術院会員。文化勲章受章。
経歴
学生時代

1889年(明治22年)に東京府東京市浅草区浅草田原町三丁目(現在の東京都台東区雷門)に生まれる。生家は「久保勘」という袋物製造販売(足袋)を業とし、店にはいつも15、6人程の職人が働いていた。浅草馬道(現在の花川戸)の市立浅草尋常高等小学校(現在の台東区立浅草小学校)を卒業し、東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)に進む。一級下に芥川龍之介がいた。1906年(明治39年)4年への進級試験で数学の点が悪く落第したために中退し[6]慶應義塾普通部へ編入し、三年をもう一度繰り返して留年した。次いで慶應義塾大学予科へ進学したときに森?外永井荷風が文学科の教授に就任した文科改革と出会ったことが運命を決めた。

はじめ、三田俳句会で出会った岡本松浜について俳句を稽古し、『三田文学』の発刊に伴い水上滝太郎を知る。松浜がまもなく東京を去ったため、松浜を介して松根東洋城に俳句を師事。1911年(明治44年)予科二年を経て文科本科に進み、小説「朝顔」、戯曲「遊戯」を『三田文学』に発表し、『東京朝日新聞』の時評で小宮豊隆が絶賛して一躍、世に文名を挙げることになった。7月、雑誌『太陽』に千野菊次郎の筆名で応募した戯曲「プロローグ」が小山内薫の選に入り、このころ島崎藤村をたずねた。

1912年(明治45年/大正元年)に土曜劇場が有楽座で『スバル』に発表した「暮れがた」を上演し戯曲が脚光を浴びた。6月に徴兵検査を受け、第一乙種で徴兵を免れる。10月には『ホトトギス』が主宰した観能会で、生田長江によって泉鏡花を紹介された。1914年(大正3年)に慶應義塾大学文学科を卒業し、浅草区駒形に移る。
太平洋戦争まで

1915年(大正4年)小山内薫を盟主として古劇研究会を作り、楠山正雄木下杢太郎吉井勇等と共に黙阿弥南北[要曖昧さ回避]・並木五瓶などの世話狂言の研究「三人吉三廓初買」を発表した。翌年に市村座に「句楽会」という句会が出来ると、傘雨と称して俳句を再開する。1918年(大正7年)2月に隣家より出火して家が類焼。大阪に居る水上龍太郎を頼って約半年在阪。帰京後は浅草区北三筋町に移り、国民文芸会の理事となる。三筋町時代に不幸な少年時代を過ごしていた川口松太郎が訪ねてきて、24歳の師匠と14歳の弟子が生まれた。

1919年(大正8年)より慶應義塾大学の講師として作文を担当。6月に喜多村緑郎夫妻の媒酌で、大場京と結婚。新富座新派」の「祭の出来事」「夜明前」の二幕を書き、職業劇団として小山内薫、吉井勇、長田秀雄岡田八千代の5名の合作で仕事にはじめて関係した。翌年に「新演芸」の演劇合評会のメンバー。小説は主に『東京日日新聞』『大阪朝日新聞』などに長篇小説「露芝」や「くづれやな」、「春泥」を連載。1921年(大正10年)「雪」が喜多村緑郎によって上演されてから、戯曲の多くは「雨空」、「冬」、「みつくし」など久保田が書いた新派によって上演された。

関東大震災後に、滝野川区田端にいた芥川龍之介としきりに往来し、1924年(大正13年)に籾山仁三郎から島崎藤村の使っていた机をもらう[7]1926年(大正15年)に慶應義塾大学講師を辞して、日暮里諏訪神社前に移る。前年から放送を開始した東京中央放送局(後の日本放送協会)嘱託となり、以後演劇科長兼音楽課長を経て文芸課長として7年間常勤し、ラジオドラマなどを手がけた。1927年(昭和2年)芥川龍之介が序文を担当して処女句集『道芝』を刊行。翌年、新潮社日本文学講座にて「樋口一葉とその大音寺時代」を書き、以後一葉の研究に没頭する。

1934年(昭和9年)4月、水原秋桜子富安風生らによって「いとう句会」が発足、その宗匠として招かれ、死の年まで続けた。。前年に『都新聞』に長篇小説「町中」を書く。9月に創作座が築地座から分裂し、真船豊の「鼬」を演出して以来、この作者の戯曲を計一三回演出。


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