久世光彦
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くぜ てるひこ
久世 光彦
本名久世 光彦
別名義小谷 夏
林 紫乃
市川 睦月
生年月日 (1935-04-19)
1935年4月19日
没年月日 (2006-03-02) 2006年3月2日(70歳没)
出生地 日本東京都杉並区
死没地 日本東京都
国籍日本
職業演出家作詞家小説家
ジャンルテレビドラマ・映画・舞台・小説・エッセイ・作詞
活動期間1964年 - 2006年
配偶者久世朋子[1]
著名な家族久世公堯(兄)
主な作品
テレビドラマ
時間ですよ
寺内貫太郎一家
ムー
ムー一族』映画
夢一族 ザ・らいばる』小説
一九三四年冬 - 乱歩』作詞
無言坂
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久世 光彦(くぜ てるひこ、1935年4月19日 - 2006年3月2日)は、日本演出家小説家実業家、テレビプロデューサーテレビ制作会社株式会社カノックス」創業者。テレビドラマ小説ともに受賞多数。

歌謡曲作詞や脚本家としてのペンネームに市川 睦月(いちかわ むつき)、小谷 夏(こたに なつ)、林 紫乃(はやし しの)など。兄は元参院議員・金融再生委員長を務めた久世公堯
来歴・人物

当時の東京市杉並区阿佐谷生まれ[2]

父親は陸軍少将の久世弥三吉で転属により、小学校2年のとき北海道札幌市へ移り、終戦の年に両親の故郷・富山県富山市へ疎開し、その後高校卒業まで富山で育つ[2]。富山市立西田地方小学校、富山大学教育学部附属中学校富山県立富山高等学校[3]東京大学文学部美学美術史学科卒業後、ラジオ東京(現・TBSHD)入社。TBSの二期上に、鴨下信一柳井満らがいる。

演出家、プロデューサーとして『寺内貫太郎一家』、『時間ですよ』などテレビ史に残る数多くのテレビドラマを製作した。1979年、後述の不倫スキャンダルが公となり[4]、TBSを退社に追い込まれる。同年、東映夢一族 ザ・らいばる』を監督して芸能界復帰[5][6]1980年に制作会社「カノックス」を設立。

1987年に出版された処女作『昭和幻燈館』を皮切りに、作家活動を本格的に開始。小説・評論・エッセイなど幅広く執筆活動を行った。50歳を過ぎてのスタートにもかかわらずその活躍はめざましく、独自の耽美的な作風を確立して多くの文学賞を受賞。他にドラマ制作現場で文字通りの「戦友」だった向田邦子を巡るエッセイが人気を博した。

2006年3月2日午前7時32分、虚血性心不全のため都内の自宅で死去。70歳没。生前はどんな病気でも入院することを嫌っていた。軽い糖尿病を患っていたほか、数年前には副交感神経関係の手術を受け、脳梗塞からの回復の途上でもあったが、死の直前まで仕事を抱えており、多くの関係者を驚かせた急死だった。2006年3月6日自宅にて通夜、翌3月7日東京都文京区護国寺桂昌殿にて告別式が営まれた。弔辞は、小林亜星と作家の伊集院静の二人が読んだ。墓所は大田区セントメモリアル西嶺浄苑。

2010年12月、没後約5年を経て、妻・朋子が久世との出会いからその人柄、突然の別れまでを綴ったエッセイ『テコちゃんの時間 久世光彦との日々』を出版した[7]
エピソード

代表作『寺内貫太郎一家』、『時間ですよ』はいずれも脚本家向田邦子とのコンビ作品。2004年1月2日に放送されたドラマ『テレビ50年ドラマ特別企画 向田邦子の恋文』(原作:向田和子、TBS)でも演出を担当。自身のエッセイ同様、1981年台湾での飛行機事故で客死した向田への想いが込められた作品となった[8]

ヘビースモーカーで知られ、「缶ピース」を愛煙した。

新人タレントへの厳しい演技指導で知られ、数多くの人気タレントを育てた。葬儀の際に浅田美代子は「親にも叩かれた事がないのに久世さんには何度も叩かれた」と明かしている。

読売ジャイアンツファンだった。

ムー一族』…郷ひろみ樹木希林のデュエットによる番組挿入歌「林檎殺人事件」がヒットした。樹木が本作の打ち上げパーティーのスピーチで、久世と「近松屋のともこ」役の女優のぐちともこが不倫関係にあり、既にのぐちがこの時、妊娠8か月であった事を暴露したことから、一大スキャンダルに発展(発覚当時、久世の妻は「認知などさせない」と強硬な姿勢だったが、後に正式離婚し、のぐちと再婚)[9]。久世と樹木は1996年放送のドラマ「坊ちゃんちゃん」まで絶縁状態となった。ただ久世とのぐちの関係は当時関係者や出演者の間で「公然の秘密」とされており周知の間柄だったが、樹木には周囲の共演者らと険悪な関係になりながらも「久世さんがああした状況の中でなし崩しにショボショボしていくのが耐えられなかった」「2人の気持ちを軽くしてやろうと思った」との真意があった。また、こうした場での暴露を非難する声に対しても「ああいう見せかけの優しさが久世さんをダメにした」と反論している[4]

『寺内貫太郎一家2』…開始間もなく過激な喧嘩シーンを収録していて西城秀樹が骨折、休養。最終回(30回目)は、向田が乳がんの手術のために「原案・向田邦子」「脚本・林紫乃」(久世のペンネームで紫乃というのは久世の長女の名前をもじったもの)となった。この時のことを久世は「雁の別れ」(『触れもせで - 向田邦子との二十年間』講談社文庫)に書いている。

喜劇的要素が強い作風のテレビドラマが多いことで知られるが、この要素を取り入れるため自ら志願して当時所属していたTBSの大人気バラエティ番組『8時だョ!全員集合』のコント演出を数回行っている。これをきっかけとして、同番組のプロデューサーだった居作昌果、出演していたザ・ドリフターズのリーダー・いかりや長介を「師匠」として尊敬するようになった。

時間ですよ・昭和元年』…1974年3月にザ・ドリフターズを脱退した荒井注は、「8時だョ!全員集合」の客員ディレクターを務めたこともある久世の出演要請により、1974年10月放送開始の本作で芸能界へ復帰した。

1981年、ポーカー賭博疑惑で警察から取り調べを受け謹慎。

作詞家としても活躍し、市川睦月(いちかわ・むつき)名義で1993年第35回日本レコード大賞受賞曲である香西かおり無言坂」などを作詞。「市川」は、師匠と尊敬する市川崑に由来する。

2004年2月、TBSラジオ竹中直人ハードボイルド・ソーセージ』に小泉今日子と共に出演。番組内において竹中から自身の監督作品、映画『サヨナラCOLOR』(2004年)への出演オファーを受け「仕方ないから歯を入れるよ」[10]と承諾。


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