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生誕1849年12月25日
(嘉永2年11月11日)
日本 武蔵国江戸長府藩上屋敷
(現:東京都港区六本木)
死没 (1912-09-13) 1912年9月13日(62歳没)
日本 東京府東京市赤坂区新坂町(現:東京都港区赤坂八丁目)
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1871年 - 1912年
最終階級 陸軍大将
勲章 勲一等旭日桐花大綬章
墓所青山墓地
乃木神社
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乃木 希典(のぎ まれすけ、1849年12月25日〈嘉永2年11月11日〉 - 1912年〈大正元年〉9月13日)は、日本の陸軍軍人[1]。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇を慕い、あとを追って殉死したことでも知られる。最終階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。明治天皇より第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めた。人々より「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれて深く敬愛され、「乃木神社」や「乃木坂」にも名前を残している。 幼名は無人(なきと)で、その後、源三と改め、頼時とも称した[2][注釈 1]。後、文蔵、次いで希典と名を改めた。また、出雲源氏佐々木氏の子孫と称したことから「源希典」との署名もよく用いた[4][注釈 2]。 軍人として高名になった後には、「乃木大将」または「乃木将軍」と呼称される[5]。 嘉永2年11月11日(1849年12月26日)、長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次(150石[7])と壽子(ひさこ、「壽」とする文献もある[8])との三男として、江戸の長府藩上屋敷(毛利甲斐守邸跡、現・東京都港区六本木)に生まれた。乃木の長兄および次兄は既に夭折していたため世嗣となる。幼名は無人(なきと)。兄たちのように夭逝することなく壮健に成長して欲しいという願いが込められている[8]。 父・希次は江戸詰の藩士であったため、乃木は10歳までの間、長府藩上屋敷において生活した。 幼少時の乃木は虚弱体質であり臆病であった。友人に泣かされることも多く、「乃木無人」(なきと)の名にかけて「泣き人」(なきと)とあだ名された。 父は、こうした乃木を極めて厳しく養育した。例えば、「寒い」と不平を口にした7歳の乃木に対し、「よし。寒いなら、暖かくなるようにしてやる。」と述べ、彼を井戸端に連れて行き、冷水を浴びせたという。この挿話は、昭和初期の日本における国定教科書にも記載されていた[9]。 詳しい時期は不明だが、乃木は左目を負傷して失明している。その原因として一説には、ある夏の日の朝、母の壽子が蚊帳を畳むため寝起こそうとしたが、くずって起きなかったので、「何をしている」とたしなめ、畳みかけた蚊帳で無人の肩を叩いた際、蚊帳の釣手の輪が乃木の左目に当たり、負傷させたのが原因とも云われる。乃木は失明を明らかにしたら壽子が気にするだろうから他言したくない、と後年述べている(生徒に対しては、「若い時に剣術で怪我をした」と嘘をついた)[10]。 安政5年11月(1858年12月)、父・希次は、藩主の跡目相続に関する紛争に巻き込まれ、長府(現・山口県下関市長府)へ下向するよう藩から命じられた。乃木もこれに同行し、同年12月(1859年1月)、長府へ転居した[11]。その後、父・希次は、150石であった禄高を1/3の50石に減らされ、100日の閉門に処された[12][13]。 安政6年4月(1859年5月)、11歳になった乃木は、漢学者の結城香崖
名前
出自
宇多源氏支流乃木氏 - 毛利家に仕えた乃木家の本姓は出雲源氏・佐々木氏とされている。乃木家は雲州野木の地頭となった、佐々木高綱の二男である野木光綱の後裔を称している。現在の松江市浜乃木一帯が野木(乃木)氏本貫の地であったとされる。ただし異説もあり[6]。
生涯
幼少期さくら坂公園[注釈 3]内にある「乃木大將生誕之地」碑
長府への転居・元服乃木神社(山口県下関市)に復元された乃木希典の家