主教戦争
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主教戦争
三王国戦争

1639年 - 1640年
場所スコットランド王国イングランド王国
発端スコットランド盟約派とスコットランド王党派およびチャールズ1世が対立
結果スコットランド盟約派の勝利

衝突した勢力


スコットランド王党派

イングランド
スコットランド盟約派
指揮官


チャールズ1世

ハミルトン侯ジェイムズ・ハミルトン

アボイン子爵ジェイムズ・ゴードン(英語版)

ハントリー侯ジョージ・ゴードン(英語版)

バンフ卿ジョージ・オグルヴィ(英語版)

コンウェイ卿エドワード・コンウェイ(英語版)

ストラフォード伯トマス・ウェントワース


モントローズ伯ジェイムズ・グラハム

アーガイル伯アーチボルド・キャンベル

アレクサンダー・レズリー

戦力
約15,000約20,000
被害者数
約300約200

主教戦争(しゅきょうせんそう、: Bishops' Wars)は、イングランドスコットランドにおいて、宗教問題が原因で起こった戦争である。イングランド王兼スコットランド王チャールズ1世イングランド国教会の形式にもとづく祈祷書監督制をスコットランドに強制したことが原因で、1639年(第1次)および1640年(第2次)の2度起こった。この戦争は2度ともスコットランド側の勝利に終わり、清教徒革命の原因の1つとなった。名称は監督制の別名・主教制に由来する。
背景

宗教改革の影響はブリテン島にも波及し、イングランドでは監督制による国教会、スコットランドでは長老制が有力であった。そこにチャールズ1世は両国の宗教統一を図りスコットランド人の反感を買い、1633年の戴冠式でスコットランドへイングランド国教会を導入することを明らかにし、1637年には側近のカンタベリー大主教ウィリアム・ロードの勧めで国教会形式の祈祷書を施行した。それに反発する長老派ピューリタンらは自由祈祷を強調した。国教会と長老制の教会政治の違いは、国王を頂点に大主教主教と続く階層・階級によって統制された国教会に対し、スコットランドの長老制は宣教長老(牧師)と治会長老(信徒の代表)からなる長老を代表とし、全体教会で議決を行うという点にあった[1]
第1次戦争

スコットランドは祈祷書施行に猛反発し、エディンバラを始め各地で民衆暴動が起こった。1638年2月、モントローズ伯爵ジェイムズ・グラハムらは国民盟約盟約派)を結成して対抗した。祈祷書を拒否して監督制を廃止し、1639年にアレクサンダー・レズリーおよびアーガイル伯爵アーチボルド・キャンベルを指揮官に指名して兵を募り、反乱を起こした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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