主教戦争
三王国戦争中
時1639年 - 1640年
場所スコットランド王国、イングランド王国
発端スコットランド盟約派とスコットランド王党派およびチャールズ1世が対立
結果スコットランド盟約派の勝利
衝突した勢力
スコットランド王党派
イングランド
スコットランド盟約派
指揮官
チャールズ1世
ハミルトン侯ジェイムズ・ハミルトン
アボイン子爵ジェイムズ・ゴードン
主教戦争(しゅきょうせんそう、英: Bishops' Wars)は、イングランド・スコットランドにおいて、宗教問題が原因で起こった戦争である。イングランド王兼スコットランド王チャールズ1世がイングランド国教会の形式にもとづく祈祷書と監督制をスコットランドに強制したことが原因で、1639年(第1次)および1640年(第2次)の2度起こった。この戦争は2度ともスコットランド側の勝利に終わり、清教徒革命の原因の1つとなった。名称は監督制の別名・主教制に由来する。 宗教改革の影響はブリテン島にも波及し、イングランドでは監督制による国教会、スコットランドでは長老制が有力であった。そこにチャールズ1世は両国の宗教統一を図りスコットランド人の反感を買い、1633年の戴冠式でスコットランドへイングランド国教会を導入することを明らかにし、1637年には側近のカンタベリー大主教ウィリアム・ロードの勧めで国教会形式の祈祷書を施行した。それに反発する長老派、ピューリタンらは自由祈祷を強調した。国教会と長老制の教会政治の違いは、国王を頂点に大主教・主教と続く階層・階級によって統制された国教会に対し、スコットランドの長老制は宣教長老(牧師)と治会長老(信徒の代表)からなる長老を代表とし、全体教会で議決を行うという点にあった[1]。 スコットランドは祈祷書施行に猛反発し、エディンバラを始め各地で民衆暴動が起こった。1638年2月、モントローズ伯爵ジェイムズ・グラハムらは国民盟約(盟約派)を結成して対抗した。祈祷書を拒否して監督制を廃止し、1639年にアレクサンダー・レズリーおよびアーガイル伯爵アーチボルド・キャンベルを指揮官に指名して兵を募り、反乱を起こした。ただ、盟約派は宗教政策に反対していたが国王へ忠誠を誓う体裁を取っていた[2][3]。 チャールズ1世は盟約軍を鎮圧すべく、ハミルトン侯ジェイムズ・ハミルトンに命じて軍を集めた。この時資金面でかなりの無理をしたといわれるが、とにもかくにも2万の軍を集めた。両軍はベリックで対峙したが、イングランド軍は訓練不足の民兵が徴集に不満を抱いて略奪に走り、ピューリタンの兵士達は宗教が同じカルヴァン主義のスコットランドへの出兵に疑問を感じ、戦う意義を見出せなかった。ハミルトン侯は自軍に不利な条件が重なり、相手方の軍の方が装備・練度・士気などあらゆる面ですぐれていることを認めざるを得なかった。 結果を憂慮した国王軍は和平を申し入れ両軍は剣戟を交えず、6月18日にベリック条約が締結された。この間、国王派のハントリー侯爵ジョージ・ゴードン 和睦が締結されたものの、両者、特に事実上敗者のチャールズ1世はこれを再挙までの時間稼ぎとしか考えていなかったため監督制について譲らず、スコットランド盟約派もチャールズ1世への不信から拒否の姿勢を続けた。国王は実力行使を決意し、ロードと並ぶ側近のストラフォード伯爵トマス・ウェントワースの進言で軍事費を求めて、1640年4月に11年ぶりに議会を召集した。 この議会は短期議会といわれるように、個人支配
背景
第1次戦争
第2次戦争
こうした動きを察知した盟約軍もすばやく動き、国境を越えてイングランド北部に進出、8月28日、ニューバーンの戦いで両軍は激突した。この戦いは盟約軍の圧勝に終わり、ストラフォード伯の督戦も効果無くニューカッスルが盟約軍に占領された。チャールズ1世は自ら和睦を申し出て10月26日にリポン条約が結ばれ、イングランドはノーサンバーランド・ダラム両州の占領、および1日あたり850ポンドの駐留軍維持費を撤兵まで2ヶ月支払うという屈辱をみた。こうして、第2次主教戦争も事実上チャールズ1世の敗北に終わった[2][6]。 チャールズ1世には駐留軍維持費の支払いのため、11月に議会(長期議会)を開かざるをえなくなっていた。ピムら議員達はこの議会でも無議会政治への非難を続け、責任者として弾劾されたストラフォード伯とロードは投獄、後に処刑された。国王大権の制限にも取り組んだ議会にチャールズ1世はなすすべも無く承認するしか無かったが、次第に議会内部が王党派と議会派に分裂していく中、1641年10月にアイルランドでプロテスタント虐殺事件(アイルランド反乱
結果と影響