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主体思想塔
各種表記
チョソングル:????
漢字:主體思想
発音:チュチェササン
日本語読み:しゅたいしそう
RR式:Juche sasang
MR式:Chuch'e sasang
英語表記:Juche idea
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主体思想(しゅたいしそう[1]、チュチェしそう、朝鮮語: ????/主體思想)とは、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)及び朝鮮労働党の政治思想である。中ソ対立のはざまで「自主、自立、自衛」を掲げ、金日成の独裁を正当化する思想で、金日成の側近だった黄長Yによって体系化された[2][注釈 1]。 この思想は、1950年代後半以降に始まった中ソ対立の狭間で、祖国の自主性維持を目指す金日成が「我々式社会主義」に言及する中で登場し、金正日もこれを引き継いだ。この過程で、モスクワ国立大学哲学博士である黄長Yが哲学的に体系づけたといわれる[2]。後に金日成により性格づけられ[3][4]、1972年の憲法で「マルクス・レーニン主義を我が国の現実に創造的に適用した朝鮮労働党の主体思想」と記載された[5]。朝鮮人民が国家開発の主人であり、国家には強力な軍事的姿勢と国家的資源が必要である、とする。 「主体(チュチェ)」は、哲学およびマルクス主義の用語「主体」を朝鮮語に変換したもので[4]、さらに北朝鮮では「自主独立」や「自立精神」を意味する場合も多い。主体思想は「常に朝鮮の事を最初に置く」という自民族中心主義の意味でも使われている[6]。金日成は、主体思想は「人間が全ての事の主人であり、全てを決める」という信念を基礎としている、とした。 ハングルでは「????」、朝鮮漢字では「主體思想」と表記される。日本語では「主体思想」[注釈 2]と表記される場合が多いが、「チュチェ思想」[注釈 3]の表記も使用されている[注釈 4]。日本の主体思想団体では「自主の道」などの言い換えもなされている。 朝鮮労働党の公式党史では「主体(思想)」の起源は1930年代で、最初の言及は1930年(主体19年=昭和5年)6月30日の金日成が18歳の時の演説とされている[8]。しかし、これらの情報には信憑性が無い[9]。 知られている北朝鮮での「主体(チュチェ)」への最初の言及は、1955年12月28日の金日成による演説『思想的研究における教条主義および形式主義の除去と「主体(チュチェ)」の構築」』[10]である。金日成はこの演説で、党の宣伝担当者はソビエト連邦から思想や慣習を輸入するのではなく、朝鮮自身の「ウリシク(我々式)」の方法によって朝鮮革命を前進させるべきであると論じた。これは、スターリン批判が国内に波及することを恐れた金日成が防波堤を作ったものであるとの見方もある。朝鮮で革命を行うために、我々は朝鮮人民の慣習と同様に、朝鮮の歴史や地理学も知るべきである。それらが彼らに適合し、彼らの生まれ故郷や祖国への激しい愛情を彼らに呼び起こすことを通じてのみ、我々の人民を教育する事が可能になる。 ? 金日成、[6]:421 1950年代後半、金日成がマルクス・レーニン主義の彼自身の見解の構築を考えていた時に、首席思想相談役だった黄長Yが、この演説の「主体」がマルクス・レーニン主義の独創的な発展とみなせる事を発見し[11]、この概念を社会的に定義された信条として構築を開始した[3]との主張がある。1958年までに金日成が北朝鮮での支配を確立すると、この言葉は人民による彼への献身を示す目的で使い始められ、金日成やその一族の歴史や指導者としての正統性への美化など、個人崇拝が進められた[12]。「マルクス・レーニン主義#前衛党論」および「黄長Y#金日成総合大学総長時代」も参照 冷戦の期間中、北朝鮮は主体思想と自立の原則を他国、特に非同盟諸国への経済発展の方法として推進した。1967年から自己への権力集中を強化していたルーマニア大統領ニコラエ・チャウシェスクは、1971年、朝鮮民主主義人民共和国を含むアジア諸国訪問時の北朝鮮の思想的な動員力と大衆による賞賛に影響を受けていた。詳細は「ニコラエ・チャウシェスク#共産主義体制の影響」を参照 1972年の憲法改正で、主体思想は公式な国家思想としてマルクス・レーニン主義と置き換えた。これは中ソ対立の影響でもあったが、主体思想は「マルクス・レーニン主義の創造的な適用」と定義された。金日成はまた、主体思想は全てのスターリン主義国家を継承する、計画的な位置づけであると説明した[13]。「朝鮮民主主義人民共和国の政治#社会主義下の政治・経済改革」および「スターリニズム#党組織論」も参照
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歴史
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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