この項目では、物語における中心人物について説明しています。その他の用法については「主人公 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
主人公(しゅじんこう)は、フィクション作品(小説・映画・ドラマ・漫画・アニメ・ゲームなど)のストーリーの中心となり、物語を牽引していく登場人物。
日本語の「主人公」という語句は、坪内逍遥によるものとされている[1]。また、主人公の役割を演じる者は主役と呼ばれている[2]。英語ではヒーローやヒロインと同義である場合もあるが、形式張った表現ではプロタゴニスト (Protagonist) という[3]。また、作品名となっている場合には、タイトルキャラクター (title character) ともいう[4]。 物語は作り手の思想などを、一定の枠組みや起承転結などの筋立てによって再構成したものであり、自然に湧き出るように発生するものではない。近代作家たちの中には、計画的なプロットに基づかず摂理を加えず、作家自身にも予言のできない結末へと流されるまま進んでいくようなあり方の小説を模索する者もいたが、こうした試みは従来の枠組みの小説に熟達したうえで多くの天分に恵まれなければ、為し得ない種類のものである[5]。小説家を志す者が物語の構想と登場人物の設定を頭の中に思い浮かべて勢いのまま書き始めようとしても、決して自然と筆が進むことは起こらず、小説家はストーリーを捻り出すために七転八倒することになる[6]。作家の中にはしばしば「登場人物が勝手に動いて筆が進んだ」という体験をする者もいるが[6][7]、それは人並み以上の読書や経験、修練を積んで初めてできるものである[7][8]。 一方、人間が物語を理解したり創造したりする能力自体は5歳頃になるとすでにみられ[9][10]、「欠如の回復」といった主人公の使命を理解したり[11]、自分が知覚した経験を解体して類型的な物語へと再構成したりすることができるようになる[12]。主人公が「行って帰る」という物理的ないし精神的な行為を行うことにより、主人公の成長などの変化が描かれるという物語の類型は、幼い子供にも好まれる原始的な物語の構造であり[13]、人類にとってそれ以上のものを作る必要がなかった物語の完成形である[14]。 民話のような古典的な物語においては、登場人物の中の誰が主人公であるかは明快で、唯一無二の主人公を軸とした物語が描かれる[15]。一方、現代の作品では、複数の登場人物を軸にした物語が平行したり絡み合ったりする形で進行するのが一般的であるため、物語のサブプロットごとに主人公と呼べる登場人物が存在する[15]。通常、物語の作り手は、メインとなる主人公を主人公らしく見せるために注意を払いながら、様々な技法を駆使して物語を筋道立てて進行させようとする。しかし作家の技量が未熟であったり、既存の枠組みを打ち破る独創的あるいは前衛的な作品を創らんとする野心を抱いていた場合は、そうした注意や努力が放棄されている場合もある。また、物語の解釈は作り手の中ではなく受け手の側に委ねられており[16]、受け手が悪役の側に共感した場合など[17]、誰を主人公とするかで解釈が分かれてしまう場合もある。あるいは群像劇など明確な主人公がおらず、不特定多数の登場人物によって展開していく物語もある[18]。本項では、想定しうる主人公の定義や、主人公にしばしば見られる特性を以下に列挙する[19]。 主人公は、一人称小説では語り手(視点人物)であることが多いが、三人称小説では別に語り手の役職が存在するため、そうでないこともある。「#主人公と視点人物」を参照。 ソ連の昔話研究家ウラジーミル・プロップはロシアの民話を整理し、登場人物たちを「敵対者」「贈与者」「助手」「王女とその父」「派遣者」「主人公」「偽主人公」の7種の行動領域に分類した。一方、アルジルダス・ジュリアン・グレマスは「主体」「対象」「恵与者」「受益者」「補助者」「敵対者」の6種の行為項に分類した。これらの構造主義的物語論においては、主人公は他の登場人物たちとの関係、ないし物語上の機能として定義される[20]。プロップの定義では主人公とはつまり、派遣者によって送り出され、贈与者の試練を経て魔法的な力を手にし、助手の助けを得ながら敵対者との対決に勝利するが、手柄を主張する偽主人公と対立するものの最終的にはそれを退けることで王女とその父によって認知され、王女と結ばれる者である[21]。 こうした構造は古典的な民話のみならず、物語を作り出す技法として広く応用されており、細部の違いはあっても古今東西の小説や映画などにも見られるものである[21][22]。
定義・特性
機能
語り手
行為項「ウラジーミル・プロップ」も参照