この項目では、丹生川上神社下社について説明しています。丹生川上神社の中社については「丹生川上神社」を、上社については「丹生川上神社上社」をご覧ください。
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丹生川上神社下社
丹生川上神社下社(にうかわかみじんじゃしもしゃ)は、奈良県吉野郡下市町長谷(ながたに)にある神社。式内社(名神大社)及び二十二社(下八社)の論社。旧社格は官幣大社[1]で、現在は神社本庁の別表神社。
社名は川上村の丹生川上神社上社に対するものである。
祭神
闇?神 (くらおかみのかみ)
以前は高?神であったが、大正時代に祭神の変更があり、現在の祭神となった。なお、祭神は「丹生大明神」で、丹生都比売神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町)の祭神である丹生都比売神のことであるとする説もある。 上古の由緒は不詳で、土地の古老の伝えに、丹生社の鳥居が洪水によって流されてきたので、それを拾って神体として祀ったのが創祀であるという[2]が、当神社背後の丹生山
歴史
江戸時代前期以降、式内社の所在地についての考証が盛んになると、「式内大社 丹生川上神社」については当時「丹生大明神」と称していた当神社に比定する説が有力となった[3]。その後、朝廷や幕府においてもこれを認めるようになり、宝永7年(1710年)に中御門天皇の勅使が差遣されたのを始め、時には祈雨の奉幣がなされ、また嘉永6年(1853年)に黒船が来航すると、翌7年に孝明天皇が当神社に宣旨を下して国家安泰を祈願し、文久2年(1862年)には攘夷を祈願するなど、二十二社の1社として遇された。文久3年(1863年)、天誅組の蜂起が起きると、橋本若狭や中井越前という当神社社家の者がこれに参画したため、討伐軍の兵火により本殿が罹災するとともに、拝殿や社務所などが焼失した。
明治4年(1871年)に、官幣大社に列したが、同6年に、当時の少宮司江藤正澄が、当神社の鎮座地は寛平7年(895年)の太政官符(『類聚三代格』所引)「応禁制大和国丹生川上雨師神社界地事」に記す丹生川上神社の四至境域に合致しないことを指摘して、当時の高?神社(現上社)を式内丹生川上神社に比定し、翌明治7年には当神社を「口の宮」と称すとともに、高?神社を「奥の宮」と称してこれを所轄するようになった。その後江藤説が認められて、明治29年(1896年)に当神社を「丹生川上神社下社」、奥の宮を「同上社」と改称し、2社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされた。