丹波国
■-丹波国
■-山陰道
別称丹州(たんしゅう)[注釈 1]
所属山陰道
相当領域京都府中部、兵庫県北東部、大阪府の一部[注釈 2]
諸元
国力上国
距離近国
郡・郷数6郡68郷
国内主要施設
丹波国府1.(推定)京都府亀岡市
2.(推定)京都府南丹市
丹波国分寺京都府亀岡市(丹波国分寺跡)
丹波国分尼寺京都府亀岡市
一宮出雲大神宮(京都府亀岡市)
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丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。
「丹波」の名称と由来六十余州名所図会「丹波鐘坂」
主に「丹波」が使われているが、古くは「たには」とも称し[1]、「旦波」[2]、「但波」[3]、「丹婆」[4]、「谿羽」[5]などの表記も見られる。藤原宮跡出土木簡では例外を除いて全て「丹波」なので、大宝律令の施行とともに「丹波」に統一されたと考えられている[6]。
『和名抄』では「丹波」を「太迩波(たには)」と訓む。その由来として『和訓栞』では「谷端」、『諸国名義考』では「田庭」すなわち「平らかに広い地」としているが、後者が有力視されている[7][8]。また、国が分割される場合、都に近い順に「前・中・後」を付けて命名されることが一般的であるが、律令制以前の旧丹波が分割されたとき「丹波」の地名はそのまま残り「丹波国」となった[9]。現在の京丹後市峰山町に「丹波」という地名が残るが、これは旧郷名・旧郡名であり、旧丹波郡が丹波国の中心とも言われている[1]。 明治維新直前の領域は、現在の下記の区域に相当する。 律令制以前は但馬、丹後も含み丹波国造の領域とされ、現在の京都府の中部と北部、兵庫県の北部と中部の東辺に加え、大阪府の一部にも及んでいた。7世紀の令制国成立に伴い、但馬地域が分国し但馬国となり、また和銅6年(713年)4月3日北部5郡が丹後国として分国、そして都に近い郡は「丹波国」となった[9]。現在では丹波・丹後・但馬を「三丹」、但馬を含まない場合は「両丹」[10]と総称することもある。丹波国は大まかに言って亀岡盆地、由良(福知山)盆地、篠山盆地のそれぞれ母川の違う大きな盆地があり、互いの間を山地が隔てている。このため、丹波国は甲斐や信濃、尾張、土佐のように一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質があり、丹波の歴史を複雑化した。地域性として亀岡・八木・園部の南丹(口丹波)地方は山城・摂津と、福知山・綾部の中丹は丹後・但馬と、篠山は摂津・播磨と、氷上は但馬・播磨に密接に係わる歴史を持った。 丹波国は古くより京都(平安京)の北西の出入口に当たる地理的条件から、各時代の権力者から重要視され、播磨や大和などと並んで鎌倉時代の六波羅探題や江戸時代の京都所司代などの直接支配を受けた。それだけに、都の政局に巻き込まれやすい国でもあった。鎌倉時代末期には足利尊氏が桑田郡篠村(現・京都府亀岡市篠町)で挙兵し、安土桃山時代にも丹波亀山城主の明智光秀が本能寺の変を起こすといった時代変革の重要な舞台となった。さほど有名ではないが、戦国時代に八上城の波多野氏(松田氏)は丹波諸豪族をまとめると、これを率いて山城など周辺諸国に進出したこともある。 室町時代は、おおむね細川京兆家の領国として、守護代内藤氏の下で栄えた。 安土桃山時代は羽柴秀勝や羽柴(小早川)秀秋、前田玄以といった豊臣政権の親族などが亀山に置かれた。一方、福智山は小野木重勝が封じられた。織田信長の弟である織田信包が氷上郡柏原に陣屋を構えた。 江戸時代は一国を有する大名はなく、7藩(丹波亀山藩、園部藩、綾部藩、山家藩、篠山藩(八上藩)、柏原藩、福知山藩)を有した。そのうち、丹波亀山藩と篠山藩は京都や大坂に近いため幕府の重責を担った譜代大名による移入封が多く、徳川幕府が重要視する藩の一つであった。 廃藩置県後の明治4年11月2日(1871年12月19日)の第1次府県統合により、桑田郡、船井郡、何鹿郡は京都府に、天田郡、氷上郡、多紀郡は豊岡県に分けられた。さらに、1876年(明治9年)8月21日の第2次府県統合により豊岡県は廃止され、天田郡が京都府に、氷上郡、多紀郡の二郡が兵庫県に編入されることとなった。
領域
京都府
京都市の一部(右京区京北各町・左京区広河原各町)
亀岡市
南丹市
船井郡京丹波町
綾部市
福知山市の大部分(大江町各町および雲原を除く)
兵庫県
丹波篠山市
丹波市
大阪府
高槻市の一部(中畑・田能・杉生・出灰・二料)
豊能郡豊能町の一部(寺田・牧)
歴史
古代
中世
近世
近代以後
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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