丹波哲郎
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たんば てつろう
丹波 哲郎
平凡出版『週刊平凡』1963年1月3日
本名丹波 正三郎
生年月日 (1922-07-17) 1922年7月17日
没年月日 (2006-09-24) 2006年9月24日(84歳没)
出生地 日本東京府豊多摩郡大久保町
(現:東京都新宿区
死没地 日本東京都三鷹市
身長175 cm
職業俳優
声優
芸能プロモーター
心霊研究家
ジャンル映画
テレビドラマ
活動期間1950年 - 2006年
配偶者あり
著名な家族丹波義隆(息子)
丹波明(従弟)
丹波敬三(祖父)
公式サイト ⇒丹波哲郎の霊界サロン
主な作品
映画
殺人容疑者
丹下左膳
暗殺
忍法忠臣蔵
組織暴力
007は二度死ぬ
続・組織暴力
七人の野獣
七人の野獣 血の宣言
やくざ番外地
やくざ番外地 抹殺
軍旗はためく下に
人間革命
ノストラダムスの大予言
砂の器
続・人間革命
事件
大日本帝国』テレビドラマ
キイハンター
ジキルとハイド
バーディー大作戦
大盗賊
鬼平犯科帳
Gメン'75
混声の森
Gメン'82
『夕陽よ止まれ』
スーパーポリス
忠臣蔵・女たち・愛
世にも奇妙な物語 冬の特別編』「王将」

 受賞
日本アカデミー賞


最優秀助演男優賞

1981年二百三高地

ブルーリボン賞


助演男優賞

1981年二百三高地

その他の賞
毎日映画コンクール
男優演技賞/男優主演賞
1973年人間革命日刊スポーツ映画大賞
助演男優賞
2000年十五才 学校IV

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丹波 哲郎(たんば てつろう[1]1922年大正11年〉7月17日[1] - 2006年平成18年〉9月24日)は、日本俳優声優芸能プロモーター・心霊研究家。

東京府[1]豊多摩郡大久保町(現:東京都新宿区)出身[2]身長175cm。俳優活動は50年以上で出演した映画は外国映画10本を含んだ300本以上に及ぶ名優[3][1]である。テレビドラマでも活躍し、映画製作にも携わった。丹波プロダクション[注釈 1]・俳優養成所「丹波道場」を設立して後進の育成も手がけており、宮内洋は丹波の一番弟子である。

心霊学と霊界の研究、多数の書籍を著しており、『丹波哲郎の大霊界』はベストセラーとなった[3]
来歴

大久保町字百人町(現在の新宿区百人町)にて丹波家の三男として生誕。祖父は東京帝国大学名誉教授の丹波敬三[2]、父はその二男で、東北薬専卒の陸軍薬務官で日本画家の丹波緑川(次郎)[4]、親戚には従弟で音楽学者の丹波明、元大審院院長の林頼三郎らがいる。哲郎の生家は祖父の別邸を父が譲り受けた屋敷[4]。家柄は系図を遡ると、天平の昔から伝わる薬師の名家で[2]医学書医心方』を著した丹波康頼にたどり着く。

成城中学から陸軍幼年学校を受験するも落第し、仙台の二高を二度受験するも不合格。親戚の林頼三郎が総長を務める中央大学法学部英法科へ無試験で入学したという。在学中に第1回学徒出陣し佐倉の東部64部隊(近衛歩兵第5連隊)に入隊[2]、しかし態度が大きいという理由で普通の3倍程の体罰を受けることもあった[5]立川陸軍航空整備学校で整備士官としての教育を受け、上官には川上哲治がいた(詳細は#人物を参照)。

航空隊に在籍していたために特攻隊員になる可能性もあったが[6]、なることなく立川で終戦を迎える。戦後の1945年大学に復学し[2]、学業の傍らGHQ通訳のアルバイトをしていたが[2]、実際には英語は半分程度しか理解できず[7]、トイレに逃げ込み、仕事の終わる時間を待っていたという。またダグラス・マッカーサーには2度ほどエレベーターの中で遭遇したと語っている[8]

1948年に大学を卒業[2]。卒業後は団体(油糧砂糖配給公社)職員となるも俳優を志し[2]1950年創芸小劇場主宰を経て劇団文化座に加入後、1951年春勧誘されていた新東宝に入社[2]


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