丹南藩(たんなんはん)は、河内国丹南郡などに1万石を領有した藩。藩主は譜代大名の高木家。藩庁は河内国丹南郡丹南村(現在の大阪府松原市丹南)の丹南陣屋。 藩祖の高木正次は、徳川十六神将の一人高木清秀の子で、相模国・武蔵国・上総国・下総国および近江国に9千石を領する旗本だった。元和9年(1623年)に大坂定番に就任し1千石の加増を受け、河内国丹南郡22村に1万石を領する大名となった。 2代正成の時に安房国・上総国に3千石が加増されたが、3代正弘の時に2人の弟に1500石ずつ分与して1万石に戻った。 6代正陳の時、参勤交代を行わない定府となった。元禄12年(1699年)には所領の一部を下野国足利郡に移された。 8代正弼の時代の宝暦8年(1758年)には丹南郡の領地の一部を丹北郡、志紀郡に移された。明和6年(1769年)には農民が拝借金や配給米を求めた騒動が起き、庄屋22名が江戸屋敷に召還された。この騒動は「郷中騒動」と呼ばれている。正弼は騒動処置の不手際を幕府に咎められ、江戸城出仕を停止された。 12代正坦は慶応2年(1866年)、幕府領であった安宿部郡国分村(現在の大阪府柏原市国分)で起きた一揆に対し、幕府より鎮圧の命を受け出兵し、江戸時代中期より困窮していた藩財政は、なお一層窮乏を極めた。廃藩時の借金は3万9000両と小藩としては非常に多額であった。明治元年(1868年)には藩校「丹南学校」を開いた。 明治2年(1869年)の版籍奉還とともに藩主家は華族に列した。藩領は明治4年(1871年)廃藩置県により丹南県となった後、堺県を経て大阪府に編入された。 藩主家は明治17年(1884年)の華族令で子爵に叙せられている。 譜代 10000石 幕末の領地は以下のとおりである。明治維新後には、丹北郡3村(旧館林藩領)が加わった。 「藩制一覧」[1][2]によると、明治元年(1868年)の丹南藩の状況は以下のとおりである。なお、数値は河内国と下野国の2か国にある領地を合算したものである。
略史
歴代藩主
高木家
高木正次
高木正成
高木正弘
高木正盛
高木正豊
高木正陳
高木正恒
高木正弼
高木正直
高木正剛
高木正明
高木正坦
高木正善
幕末から明治にかけての領地
河内国
志紀郡のうち - 2村
丹南郡のうち - 12村
丹北郡のうち - 6村
下野国
足利郡のうち - 4村
草高:11,007石5斗9升4合3勺7才
正租:米6,041石9斗6升4合、永142貫800文5分6厘
諸産物
木綿:正租之内ニテ年々多少有之
織物:昨辰年分36,661反
諸税:米87石7斗4升5合、永22貫41文
(社税10石)
戸数:1,709軒
人数:7,878人(男3845人、女3967人)
士卒戸数合併:190戸
神社:41社
寺:48宇(僧59人、下男4人)
士族:129人
卒族:134人、家族男184人、家族女397人
社家:6軒、人数26人(男12人、女14人)
庵:3か所
村数:26か村
華族:男3人
藩士隊:役員6人
藩卒隊:役員7人
脚注^ 明治元年に太政官が各藩に状況の調査を命じ、明治2?3年に各藩が上申したものを編集した「藩制一覧表」が昭和3・4年に史籍協会から出版されたもの。
^ “国立国会図書館デジタルアーカイブ
参考文献
大塚武松 編『藩制一覧』 上、日本史籍協会、東京〈日本史籍協会叢書〉、1928年、252-254頁。doi:10.11501/1444759