丹下健三
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農業技術者・政治家の「丹下乾三」とは別人です。

丹下健三

生誕1913年大正2年)9月4日
大阪府堺市
死没 (2005-03-22) 2005年3月22日(91歳没)
東京都港区
国籍 日本
出身校東京帝国大学
職業建築家
受賞日本建築学会賞(1954、55、58年)
RIBAゴールドメダル(1965年)
AIAゴールドメダル(1966年)
文化勲章(1980年)
プリツカー賞(1987年)
高松宮殿下記念世界文化賞(1993年)
勲一等瑞宝章(1994年)

所属丹下都市建築設計
建築物広島平和記念公園
香川県庁舎
東京カテドラル聖マリア大聖堂
代々木第一体育館
山梨文化会館
静岡新聞静岡放送本社ビル
東京都庁舎
代々木第一体育館 1964

丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年大正2年)9月4日 - 2005年平成17年)3月22日)は、日本建築家都市計画家一級建築士(登録番号第15182号)。位階勲等従三位勲一等瑞宝章文化勲章受章。フランス政府よりレジオンドヌール勲章受章。カトリック信徒(洗礼名:ヨセフ)。

日本では「世界のタンゲ」と言われたように、日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍し、認知された一人。第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、多くの国家プロジェクトを手がける。磯崎新黒川紀章槇文彦谷口吉生などの世界的建築家を育成した。また、日本人並びにアジア人として初めてプリツカー賞を受賞した人物である。
年譜

1913年(
大正2年) 丹下辰世(ときよ)とテイ(禎・禎子)の三男[注 1]として大阪府堺市に生まれる。住友銀行社員であった父の転勤によって1916年中国漢口へ。数年後さらに上海イギリス租界に移り住む。

1918年(大正7年) 上海・日本尋常小学校入学。

1921年(大正10年) 叔父が急逝し、家業のタオル製造業を父が継ぐため愛媛県今治市に一家で移住。今治の第二尋常小学校(現・今治市立吹揚小学校)に編入。

1926年(大正15年) 旧制今治中学(現・今治西高校)入学。

1930年(昭和5年) 今治中学四年修了(飛び級)で旧制広島高校(現・広島大学)理科甲類に進学[1]。同校図書室で見た外国雑誌のル・コルビュジエの記事に感銘を受け建築家を志す。ル・コルビュジエを通して一時傾倒していたマルクス主義から実存主義に転向する[2]

1933年(昭和8年)?1934年(昭和9年) 東京帝国大学建築科の受験に2度失敗。東北帝国大学金属学科に毎年1?2名の欠員が出ると聞き受験するが、丹下が受けた年に限りたまたま1人だけ定員を超えており、丹下のみが落第する。徴兵逃れのため日本大学芸術学部映画学科に在籍したがほとんど登校せず、ヴァレリージードプルーストドストエフスキーヘーゲルハイデッガーなどを読み耽り、名曲喫茶で友人と語り合い、バーに出没した。「なぜ二年間にもなったかといえば、多感な青春時代、情熱をもって取り組む対象がどうしても文学だとか芸術だとかに偏してしまったから、ということにしておきたい」(丹下健三『一本の鉛筆から』p.25)。丹下はまた「日大の映画科には籍を置いたままで終わった。しかし、私は映画には大変興味を持っていて、そのころからしきりに言われた「総合芸術」に取り組んでみようと思ったことがあったのも事実である」(丹下健三『一本の鉛筆から』p.27)とも述べている。同時期の日大芸術学部には黒澤明がいたとする資料もある[3]

1935年(昭和10年) 東京帝国大学(現・東京大学)工学部建築科に入学。内田祥三岸田日出刀武藤清に師事。1学年上に立原道造が在籍していた。

1938年(昭和13年) 東京帝国大学工学部建築科より辰野賞を受賞。東京帝国大学工学部建築科卒業後、前川國男建築事務所に入所。当時の担当作品に岸記念体育会館があるが現存しない。

1941年(昭和16年) 東京帝国大学大学院に入学し、高山英華の研究室に入る。

1942年(昭和17年) 大東亜建設記念造営計画設計競技に1等入選。

1946年(昭和21年) 東京帝国大学大学院修了後、同大学建築科助教授に就任。いわゆる「丹下研究室」を作る。

1951年(昭和26年) CIAM(国際近代建築会議)に招かれ、ロンドン広島計画を発表。初めての日本国外旅行となる。

1954年(昭和29年) 日本建築学会作品賞(愛媛県民館)。以後同賞受賞がつづく(1955年図書印刷原町工場、1958年倉吉市庁舎)。

1958年(昭和33年) アメリカ合衆国建築家協会(AIA)第1回汎太平洋賞受賞。

1959年(昭和34年) 東京大学より工学博士の学位を受ける。博士論文は「大都市の地域構造と建築形態」。

1963年(昭和38年) 新設された東京大学工学部都市工学科教授に就任。

1965年(昭和40年) 日本建築学会特別賞(国立屋内総合競技場)。イギリスRIBAゴールドメダル受賞。

1966年(昭和41年) アメリカ合衆国AIAゴールドメダル受賞。

1970年(昭和45年) ローマ法王庁大聖グレゴリウス勲章受章。

1973年(昭和48年) フランス建築アカデミー ゴールドメダル受賞。

1974年(昭和49年) 東京大学を定年退官、名誉教授となる。

1976年(昭和51年) 西ドイツ政府プール・ル・メリット勲章受章。

1979年(昭和54年) 文化功労者に選出。イタリア共和国功労勲章コンメンダトーレ章受章。

1980年(昭和55年) 文化勲章受章。

1984年(昭和59年) フランス芸術文化勲章コマンドール章受章。

1986年(昭和61年) 日本建築学会大賞(日本における現代建築の確立と国際的発展への貢献)。

1987年(昭和62年) アメリカ合衆国プリツカー賞受賞。新日本建築家協会(現在の社団法人日本建築家協会)初代会長(1988年まで)

1993年(平成5年) 高松宮殿下記念世界文化賞建築部門受賞。

1994年(平成6年) 勲一等瑞宝章受章[4]

1996年(平成8年) フランスレジオンドヌール勲章受章。

2005年(平成17年) 3月22日死去(91歳)。贈従三位。東京カテドラル聖マリア大聖堂の地下に埋葬された。

業績.mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}}広島平和記念資料館 1955東京カテドラル聖マリア大聖堂 1964山梨文化会館 1966東京都庁舎第一本庁舎 1991

1939年(昭和14年)、丹下は雑誌『現代建築』に論文「ミケランジェロ頌-ル・コルビュジエ論への序説として-」[注 2]を発表し、つづく1941年(昭和16年)に前川国男建築設計事務所で岸記念体育会館[注 3]の設計を担当したが、その名が一躍世に知られるようになったのは、1942年(昭和17年)の大東亜建設記念営造計画[注 4]コンペと、それに立て続いて1等入選を果たした、1943年(昭和18年)の在盤谷日本文化会館計画コンペによってである。

特に大東亜建設記念営造物コンペの丹下案、「大東亜道路を主軸としたる記念営造計画-主として大東亜建設忠霊神域計画-」は、ヒューマンスケールを遥かに超えた壮大なプランと、横山大観風の日本画を想わせるそのパースペクティブ(透視図)によって、本来建築学会の若手を対象にした懸賞行事であり、それゆえ到底実施案となり得なかった地味なこのコンペをして、後世まで人々の記憶に留めさせることになった[5]

同時期の大学院時代から第二次世界大戦後しばらくにかけては、主に都市計画の研究・業務に従事。人口密度や交通現象、都市デザイン等の研究を続け、それらの成果を第二次世界大戦後に日本建築学会で発表し、後にそれをもとに1959年(昭和34年)に博士号学位論文「都市の地域構造と建築形態」としてまとめ上げる。また、1946年(昭和21年)8月に東京大学助教授に就任すると、福島市の依頼による福島地区都市計画(1947年)や立川基地跡地の文化都市計画、北海道稚内市の都市計画(1950年から1952年まで)などを手がけていった。その間の1948年(昭和23年)には「建築をめぐる諸問題」、また二年後の1950年(昭和25年)には経済安定本部資源調査会事務局地域計画班の依頼による「地域計画の理論」という2つの計画関連の研究小論文を執筆しているほか、戦災復興事業の一環で行われた東京都都市計画コンペや文教都市計画、1947年から戦災復興院(後の建設省。現・国土交通省)による各地の戦災復興都市計画に参加した。当初の担当は群馬県前橋市伊勢崎市であった[6]

広島に原爆が投下された1945年(昭和20年)8月6日には、父危篤の知らせを受け帰郷の途にあって尾道にいたが、焼け野原となって跡形も無くなっていた実家に到着した翌7日、父はすでに2日に他界しており[注 5]、また広島市への原爆投下と同じ日に実施された今治への空襲によって、最愛の母をも同時に失っていたことを知らされる。壊滅的被害を受けた広島は、外国の雑誌でル・コルビュジエのソビエト・パレス[注 6]計画案と出逢い、建築家を志した想い出の地でもあった。その広島の復興計画が戦災復興院で俎上にのぼっていることを知るに及んで、残留放射能の危険性が心配されたにもかかわらず、丹下は志願して担当を申し出た[7]浅田孝大谷幸夫ら東大の研究室のスタッフとともに1946年の夏に広島入りし、都市計画業務に従事した[8]。その成果は、広島市主催の広島平和記念公園のコンペに参加した際、1位で入選という形で結実する。

他の設計案が、公園内のみを視野に入れた計画案にとどまったのに対して、丹下は広島市を東西に貫く平和大通り(幅員100m、長さ4kmにわたる通称100メートル道路)と直交する南北軸線上に、慰霊碑と原爆ドームを配し、その計画案の都市的スケールが、コンペで高く評価された理由である[9]。広島の復興計画において、この市街地を十字型に貫く都市軸を通したことで、第二次世界大戦後の広島市の骨格を作ったのは丹下であると言える[1][10]


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