丸谷才一
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文藝』1966年1月号(河出書房新社)より
誕生 (1925-08-27) 1925年8月27日
日本山形県鶴岡市
死没 (2012-10-13) 2012年10月13日(87歳没)
日本東京都渋谷区
墓地鎌倉霊園
職業小説家文芸評論家英文学者
言語日本語
国籍 日本
教育修士文学
最終学歴東京大学文学部英文学科卒業
大学院人文科学研究科修士課程修了
活動期間1960年 - 2012年
ジャンル小説評論随筆翻訳
代表作『笹まくら』(1966年)
『年の残り』(1968年)
『たった一人の反乱』(1972年)
裏声で歌へ君が代』(1982年)
『女ざかり』(1993年)
『輝く日の宮』(2003年)
『持ち重りする薔薇の花』(2011年)
主な受賞歴芥川龍之介賞(1968年)
谷崎潤一郎賞(1972年)
読売文学賞(1974年・2010年)
野間文芸賞(1985年)
川端康成文学賞(1988年)
芸術選奨(1990年)
大佛次郎賞(1999年)
菊池寛賞(2001年)
泉鏡花文学賞(2003年)
朝日賞(2004年)
文化勲章(2011年)
パートナー根村絢子
子供根村亮長男
親族山本甚作(従兄弟)、落合良(甥)
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丸谷 才一(まるや さいいち、1925年大正14年)8月27日[1] - 2012年平成24年)10月13日[2])は、日本小説家文芸評論家翻訳家随筆家日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。

主な作品に『笹まくら』『年の残り』『たった一人の反乱』『裏声で歌へ君が代』『女ざかり』など。文字遣いは、1966年から74年までを除いて、独自の歴史的仮名遣いを使用。日本文学の暗い私小説的な風土を批判し、軽快で知的な作品を書くことを目指した[3]小説の傍ら『忠臣蔵とは何か』『後鳥羽院』『文章読本』などの評論随筆も多数発表しており、また英文学者としてジョイスの『ユリシーズ』の翻訳などにも携わった。座談や講演も多く、「文壇三大音声」の一人と自負していた[4]
経歴
生い立ち

1925年山形県鶴岡市馬場町乙三番地にて、開業医・丸谷熊次郎(1956年死去、74歳)とその妻・千(せん。1978年死去、85歳)との間に次男として誕生。1932年、鶴岡市立朝暘第一尋常小学校に入学、1938年、同小学校を卒業、旧制鶴岡中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)に入学、1943年、同中学校を卒業。中学在学中に勤労動員を体験して軍への嫌悪感を募らせる。当時の優等生は陸軍士官学校海軍兵学校に進むことを期待されていたにも関わらず、校長の勧めを無視して上京して東京の城北予備校に1年間通学(1943年4月から1944年春)。予備校時代に作家の安岡章太郎と知り合う。1944年旧制新潟高等学校文科乙類に入学。百目鬼恭三郎と知り合う。一学年上に同じく英文科へ進んだ綱淵謙錠(中央公論社の編集者でのち作家)がいる。

1945年3月、召集(学徒動員)によって山形の歩兵第32連隊に入営し、8月15日は青森で迎え、9月に復学する。1947年3月、新潟高等学校 (旧制)を卒業。

1947年4月、東京大学文学部英文科に入学。中野好夫平井正穂のもとで主に現代イギリス文学を研究、ジェイムズ・ジョイスを知り大きな影響を受ける。1950年3月、卒業。卒業論文は「James Joyce」(英文)。4月、同大学院修士課程に進む。修士課程時代には小津次郎の紹介で[5]桐朋学園で英語教師としても勤務しており、当時の教え子には小澤征爾高橋悠治がいた[注 1]1951年1月、東京都立北園高等学校講師(1954年3月まで)。
作家活動へ

1952年1月、篠田一士菅野昭正川村二郎らとともに季刊の同人誌『秩序』(白林社)を創刊。その第1号に短編小説「ゆがんだ太陽」を掲載した。また同誌2号から7号に初の長編小説『エホバの顔を避けて』を連載。4月、杉並区にある高千穂高等学校講師となる。5月、グレアム・グリーンの『ブライトン・ロック』を『不良少年』の邦題で翻訳、筑摩書房より刊行。以後英文学の翻訳を行う。

1953年9月、國學院大學の専任講師となる。1954年の春まで、同人誌「現代評論」の同人仲間であった山口瞳が同じ学校の学生として在籍していた[7]1954年4月、國學院大学助教授に昇進。ここで中野孝次らと知り合う[注 2]。また、桐朋学園の非常勤講師となる。同年10月、東大英文科の同級生で演劇批評家の根村絢子と結婚。戸籍上は根村姓を継いだ。

1960年10月、『エホバの顔を避けて』を刊行。1961年1月、季刊『聲』第1号(鉢の木会の編集で丸善発行)に小説「うぐいす笛」発表。『東京新聞』1961年2月から1971年3月まで、時評「大波小波」を匿名で掲載。『文藝』1962年3月号から1963年7月号まで、時評「回転木馬」を匿名で掲載。1964年、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』を永川玲二高松雄一と共訳・刊行(上・下)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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