丸物
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本項は京都市下京区に本社を置いた百貨店「丸物」とその後身について説明しています。「京都近鉄百貨店」「京都近鉄」はこの項目に転送されています。

過去に当社の本店だった商業施設については「近鉄百貨店京都店」をご覧ください。

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株式会社丸物[1]
Marubutsu Department Store CO., Ltd.創業時の京都物産館
種類株式会社
市場情報大証1部(廃止) 8244
1949年7月18日 - 2013年7月15日京証 8244
1949年6月18日 - 2001年3月1日名証1部 8244
1949年7月25日 - 1963年6月21日
略称丸物百貨店、物産館(旧称)
本社所在地 日本
600-8216
京都府京都市下京区烏丸通七条下ル東塩小路町702
本店所在地600-8216
京都府京都市下京区烏丸通七条下ル東塩小路町702
設立1934年9月29日
創業 1920年(大正9年)1月1日(京都物産館)
業種小売業
事業内容百貨店の運営など
代表者中林仁良(代表取締役社長)
資本金10億円
発行済株式総数2000万株
決算期2月
主要株主近畿日本鉄道株式会社 36.7%
中林仁良(社長) 8.0%
株式会社丸栄 6.7%
中林雅夫 4.4%
中林孝直 3.8%
主要子会社株式会社豊橋丸物
株式会社東京丸物
丸物工器株式会社
トキワタクシー株式会社
丸物サービス株式会社
関係する人物中林仁一郎(丸物創業)
坂内義雄(当社監査役、そごう社長として出向)
特記事項:近畿日本鉄道の持分法適用会社。
注1:後の「京都近鉄百貨店」、現在は「株式会社近鉄百貨店」として法人格は存続。
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丸物(まるぶつ)とは、かつて全国的に店舗展開していた百貨店の一つである。本店は京都府京都市下京区で、のちの近鉄百貨店京都店にあたる。法人格は現在の近鉄百貨店に引き継がれている。

本項目では当社の後身である京都近鉄百貨店(きょうときんてつひゃっかてん)についても述べる。
概要
創業から東海地方進出1932年ごろの京都本店(野中凡童『大京都志』東亜通信社)谷政二郎が創業した松菱

実家・「中林呉服店」の一員として京都駅前の「名産館」に出品していた中林仁一郎(なかばやし・にいちろう)が1920年大正9年)1月京都駅烏丸口の東本願寺保有地へ進出して、土産物店「京都物産館」を設立したのが始まりである。

1926年(大正15年)10月には既存の旧館の北隣に6階建の京都物産館新館を完成させ、百貨店形態の店舗を開設した。1928年昭和3年)には昭和天皇即位の礼に合わせて7階建てに増床し、6階の一部をNHK大阪放送局京都演奏所に貸し出すなど即位関連の行事にも使用させた。翌1929年(昭和4年)には「京都物産館」を日本百貨店協会の前身組織に加盟させ、西陣分店を開店。続いて、1930年昭和5年)6月には京都物産館の名称のまま、岐阜市柳ヶ瀬支店を開店して多店化に乗り出し、1931年(昭和6年)にはそのマーク(○の中に物産館の「物」)から「丸物」に商号を変更すると共に豊橋市広小路の「物産館」[注 1]の経営を引き継いで「豊橋丸物」を開業している。

また、この頃から百貨店の支店開設に関する法規制ができたため、直営の支店に加え、系列百貨店の設立にも乗り出した。中林仁一郎の実弟で創業以来丸物の役員でもあった谷政二郎が1937年(昭和12年)に浜松市へ「松菱」を開業したほか[2]、中林仁一郎自身も1939年(昭和14年)5月20日には名古屋市に「三星(みつぼし)」を開店した。このように直営の支店と系列百貨店の設立を合わせて東海地方での店舗展開を積極的に行った。「三星」は戦時中の経営規制のため、老舗の百貨店「十一屋」と経営統合し、「丸栄」となったが、戦後も仁一郎の息子が社長に就任するなど当社がイニシアチブを発揮した。

一方、本店が7階建てとなったころ、島屋がその向かいに「十銭ストア」を出店しており[注 2]、対抗して9銭マーケットを開設するなど、値下げ競争を実施した。「十銭ストア」撤退後もこのコーナーがしばらく残っていたため、丸物は安い買い物をする場所と認識され[3]、各支店でもセールを乱発するなどイメージの変化はできず[注 3]、百貨店らしい非日常感や高級感を持たせられなかった。
戦後の全国展開

中林仁一郎は太平洋戦争の時点で、後年の「東海道メガロポリス」のような思想として、百貨店の多店化を構想した。その実現のため、戦後大垣市にあった「マルイ」(東京の月賦百貨店だった丸井とは無関係)を傘下に入れた大垣支店や、他の百貨店が存在しなかった京都府北部の舞鶴市に舞鶴支店を開設するなど店舗展開を進めた。この2店舗は軌道に乗らず、10年足らずで閉鎖に至った。しかし、戦災で焼失した八幡市中央区(現在の北九州市八幡東区中央町)の「九州百貨店」を再建して1954年(昭和29年)に「八幡丸物」を開業したことで、九州地方にも店舗を構えるようになった。

東京では1954年(昭和29年)10月に池袋ステーションビル(パルコの前身)に資本参加し、事業目的をホテルを入居させるステーションビル運営から百貨店業に変更した。続いて、同ビルが完成する前に1955年(昭和30年)には新宿三丁目の「新宿ストアー」を買収して「新宿丸物」を開業することで東京に進出し、全国チェーンストア化が完成した。

1957年(昭和32年)12月には池袋駅に「東京丸物」を新築開店し、本格的に東京進出を図った。これを記念して、丸物各店に「名古屋丸栄」 「浜松松菱」 「沼津松菱」[注 4]津松菱」や「甲府松菱」も合わせ、「10都市を結ぶ躍進まるぶつ」として雑誌などに広告を出している[4]
経営悪化

東京進出直後の1960年(昭和35年)4月に、全国展開の指揮を執ってきた創業者・中林仁一郎社長が70歳で急逝して強力なリーダーを失った。百貨店法の成立による出店難もあり、後述の「ひらかた丸物」を除いて出店ができなくなってしまうばかりか、店舗の閉鎖・売却に追い込まれてしまう。仁一郎の死を受けて長男の中林仁良が社長に就任し、経営再建に取り組むこととなった。

東京初進出だった新宿丸物は、ストリップ劇場の『新宿ミュージックホール』が入居し続けたことや狭い面積による品揃えの悪さによる悪い評判から売上が低迷し、1965年(昭和40年)11月に閉店に追い込まれた。池袋駅の「東京丸物」も百貨店法施行後の開店だったため、大丸東京店(東京駅)や阪急百貨店大井町数寄屋橋)と異なり、売場面積が当初構想の半分に削減されるなど[注 5]西武百貨店東武百貨店三越といった競合他店に比べてハンディを負った結果、売上は伸び悩み、西武百貨店との提携を経て1969年(昭和44年)6月に閉店し、東京からの完全撤退を余儀なくされた。


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