丸林久信
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まるばやし ひさのぶ
丸林 久信
本名同
別名義栄町 はじめ (さかえまち はじめ)
生年月日 (1917-11-17)
1917年11月17日
没年月日1999年
出生地 日本 三重県多気郡下御糸村
死没地 日本 東京都
職業映画監督脚本家映画プロデューサー演出家文筆家
ジャンル劇場用映画現代劇成人映画)、テレビ映画(現代劇・時代劇)、新劇
活動期間1940年 - 1999年
配偶者有
事務所東宝
主な作品
劇場用映画
生きる』(助監督)
生きものの記録』(助監督)
『家内安全』(監督)
『奴が殺人者だ』(監督)
『浅草の踊子 濡れた素肌』(脚本)
『絶品の女』(脚本)テレビ映画
右門捕物帖』(製作)
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丸林 久信(まるばやし ひさのぶ、1917年11月17日 - 1999年)は、日本の映画監督脚本家映画プロデューサー演出家文筆家である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14]。脚本家としての筆名に栄町 はじめ(さかえまち はじめ)がある[10][15][16]日本映画監督協会元会員[2]日本放送作家協会会員[4]日本脚本家連盟信託者[17]専修大学文学部講師、シナリオ・センター講師を歴任した。黒澤明の『生きる』、『生きものの記録』でチーフ助監督を務めたことでも知られる[1][3][10][11]
人物・来歴『大岡政談 将軍は夜踊る』(1950年)、「演出補佐」として丸林のクレジットが確認できる。『せきれいの曲』(1951年)、「演出補佐」。
戦争に分断された助監督時代

1917年(大正6年)11月17日、三重県多気郡下御糸村(現在の同県同郡明和町)に生まれる[1][3][4][18]。のちに三重県立松阪高等学校の教諭を務めた丸林勝人(1921年 - 2010年)は実弟。

1937年(昭和12年)3月、早稲田第二高等学院(現在の早稲田大学高等学院)を卒業、同年4月には旧制早稲田大学文学部国文科(現在の早稲田大学文学部日本語日本文学コース)に進学、当時の恩師に河竹繁俊(1889年 - 1967年)がいた[1]。1938年(昭和13年)2月に早稲田大学・日本大学の学生を中心に結成された「劇団衣裳座」に参加している[19]。1940年(昭和15年)3月、同学を卒業した[1][3][4]。同学卒業に先立つ同年2月、東宝映画に入社、撮影所演出助手課に配属されている[1]。在学中に河竹の勧めで受けた東宝シナリオ研究生の試験に合格、さらには同社の助監督試験に合格していた[1]。『黒澤明コレクション3』等に記載された大半の丸林の略歴には「卒業後に入社」とあるが[3]、正確な経緯は以上である[1]。同期入社に堀川弘通(1916年 - 2012年)[20]筧正典(1915年 - 1993年)、田尻繁(1911年 - 1972年)、寺出周助(のちに編集技師に転向[21])らがいた[22]

入社から1年も経たない1941年(昭和16年)1月、応召し、騎兵第20連隊(京都)に入営する[23]。同年12月8日に太平洋戦争が開戦、第五三師団中部第39部隊[1]捜索第53連隊、中部軍管区大阪教育隊を経て、1944年(昭和19年)にはビルマ戦線に派遣された[1]。丸林が当時所属した捜索第53連隊は、翌1945年(昭和20年)1月上旬、イラワジ会戦に投じられ、マンダレーに向かい、ラシオに駐屯したという[24]。丸林は長い軍隊生活のなかですでに伍長に昇進していた[24]。この長かった戦闘体験をもとに『特務諜報工作隊 秘録 雲南の虎と豹』(1971年)、『握り拳の丘 小説・イラワジ525高地』(1986年)といった単著をのちに上梓している[1][14]

第二次世界大戦が終結したのは同年8月15日であったが、丸林が復員したのは、終戦後2年が経過した1947年(昭和22年)7月24日であった[1][25]。同年8月には無事に東宝スタジオに復帰できたが、その復帰の日、撮影所の正門でばったり会った照明技師西川鶴三が「マルが帰ってきたぞ、丸さんがよう!!」と撮影所中に響かんばかりに怒鳴って知らせてくれたという[25]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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