丸木舟
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丸木舟(まるきぶね)または独木舟[注釈 1](学術用語:monoxylon[注釈 2]: logboatあるいはdugout canoeあるいはdugout[注釈 3])は、巨木を刳りぬき一本の木で成形され、もしくはわずかなコベリを付ける以外付属構造物を持た、いわゆる単材刳舟であるカヌーを主に指す。しかし、刳りぬき部材を前後に継いだり、左右に継いだり、刳舟の両側に舷側板を継ぎ足したり、刳った舷側に船底板を組み合わせたりと、さまざまに複材化したものも、丸木舟と呼ばれる[1][2]

水上での最初の乗り物として、太古の昔より用いられたものであり、考古学者によって発見されているものは新石器時代にまで遡る[3]接着溶接もしていない削り出しなので、腐食は避けられないものの壊れることが無く、水に沈むことも無いので安全性が高く[注釈 4]、後に大型の船舶が登場しても一定の役割を担い続けてきたである。
日本の丸木舟安土城考古博物館に展示されている丸木舟。先史時代琵琶湖で使用されていたもののレプリカで、湖北町尾上から竹生島までの実験航海に使われたもの。明治20年代の、アイヌの丸木舟。

先史時代のもの、歴史時代のもの、現存のもの、を含め、多くの例を占める単材刳舟は、一本の丸太を刳りぬいて造られるものであり大きさは材料となる木で制限され全長5?8メートル程度が一般的である。だが、大阪市西淀川区大仁町鷺洲から発掘された古墳時代と推定される全長11.7メートルのクスノキの刳舟など10メートルを越す大型のものも存在した。

複材刳舟のうち前後継ぎのものに、大阪市今福鯰江川の三郷橋(現・城東区今福西1丁目)で大正6年(1917年)5月に出土した刳舟があり、全長13.46メートル、全幅1.89メートルだったとされるが空襲で焼けてしまった。また浪速区難波中3丁目の鼬川で、明治11年(1878年)に出土した残存長12メートル程の刳舟も空襲で焼けてしまったが、当時日本に在住していたモースも見学しておりスケッチ写真などが残されている。他に、天保9年(1838年愛知県海部郡佐織町で出土した刳舟は残存していた長さが十一(20.6メートル)あったといわれている[4]。これら三例の前後継ぎの複材刳舟はいずれもクスノキ製とされている。
先史時代の丸木舟

日本での先史時代の丸木舟の発見例はおおよそ200例ほどで、その分布は関東地方に最も多く150例近くあり、そのうち千葉県での発見例は100例を数え日本全体の半分を占める。各地域での発見例では、千葉県北東部の縄文時代ラグーン(潟湖)が湖沼群として残る栗山川とその支流借当川流域の旧椿海周辺での出土がことに多く[5]、次に多いのが滋賀県琵琶湖周辺で25例以上あり、福井県から島根県にかけての日本海側がこれにつづく。また、大阪湾では古墳時代のものと推定される大型のものの出土例が何例かある。

日本の先史時代の丸木舟の出土例の多くは縄文後・晩期のものであるが、縄文早期や前期の出土例もある。これまで縄文前期の丸木舟として、福井県若狭町鳥浜貝塚京都府舞鶴市の浦入遺跡、島根県の島根大学構内遺跡、長崎県多良見(たらみ)町の伊木力(いきりき)遺跡、埼玉県草加市綾瀬川や千葉県多古町の栗山川流域遺跡群などの出土例が報告されており、2013年には千葉県市川市の雷下遺跡(かみなりしたいせき)で、日本最古の縄文時代早期のものとみられる丸木舟が出土した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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