丸木 位里(まるき いり、1901年6月20日 - 1995年10月19日)は、日本画家。妻・丸木俊との共同制作「原爆の図」や「沖縄戦の図」で知られる。 広島県安佐郡飯室村(現・広島市安佐北区)で農業および太田川で船宿を営む丸木金助と丸木スマの子として生まれた。臨月の頃、スマは船宿の2階から客の食膳を下げる際に階段から転落した。その事故により、出生した位里の顔の右側には目立つ痣が残ってしまっていた。このことで位里に負い目を感じたスマは、位里の生き方に干渉せず、一切を本人の自由に任せていた[1]。 1919年に大阪市天王寺区にあった松村景春校長の精華美術学院で図案を学ぶが、ほどなくして栄養不良で脚気となり帰省[2]。1923年春には上京し田中頼璋の天然画塾に学んだものの、関東大震災後に頼璋が広島へ拠点を移したため帰郷した[3]。1928年には第13回広島県美術展覧会に三段峡を題材にした《黒淵》で初入選[4]。その後はプロレタリア芸術 1945年8月広島に原爆が投下されると、広島市三滝町に移住していた父母など実家の家族の安否を気遣った位里は、疎開先の埼玉県浦和市を離れ、被爆直後の広島市内に駆けつけて、1ヵ月ほど救援活動に従事した。伯父と姪2人が死去、金助とスマはともに爆心地から約2.5km離れた自宅で被爆し、金助は原爆投下翌年に死去している[16]。帰京後、ほどなくして俊とともに日本共産党に入党[17]。1946年には日本美術会、1947年には前衛美術会の結成に参加[18]している。1948年7月に神奈川県藤沢市片瀬に転居し、この頃より俊とともに「原爆の図」の制作を構想しはじめる[19]。1950年2月、東京都美術館で開催された第3回日本アンデパンダン展に俊との共同制作《八月六日》(原爆の図第1部《幽霊》)を発表[20]。以後、1982年の第15部《ながさき》(長崎原爆資料館蔵)まで「原爆の図」の連作に取り組み続けた。 同年8月には日本橋丸善画廊と銀座三越で「原爆の図三部作完成記念展」を開催し、第2部《火》、第3部《水》を発表[21]。同時に絵本『ピカドン』(ポツダム書店)を刊行した。この頃に「原爆の図」の全国巡回展の話が立ち上がり、10月に広島市内の原爆ドーム南隣にあった五流荘(爆心地文化会館)で「原爆の図展」を開催。峠三吉の主宰する広島の詩人サークル「われらの詩の会」の仲間たちが展覧会の実現に尽力した[22]。米軍を中心とする連合国軍の占領下で、同年6月に朝鮮戦争も勃発したことで強い圧力もあったが、「原爆の図」は全国各地を巡回し、当時プレスコード下での検閲によって報じられなかった原爆の被害を多くの人に伝える役割を果たしていった。1951年7月には京都大学同学会(学生自治会)が主催し京都の丸物百貨店で開催された「綜合原爆展」に、「原爆の図」五部作が特別出品されている[23]。1953年1月には世界平和評議会より国際平和賞ゴールデンメダル賞を俊とともに受賞[24]。同年には青山通春・今井正監督の映画『原爆の図』(新星映画社)も公開された[25]。 やがて「原爆の図」は海を渡り、東アジア、ヨーロッパ、オセアニアなど20ヵ国以上を巡回するが、1963年に部分的核実験停止条約が締結されると、その評価を巡り日本の原水禁運動は分裂。位里と俊は1964年6月に朝倉摂、出隆、国分一太郎、佐多稲子、佐藤忠良、野間宏、本郷新、山田勝次郎、宮島義勇、渡部義通とともに党改革の意見書を提出し、翌月に日本共産党を除名される[26]。同年夏に「原爆の図」世界巡回展は終了し、帰国した[27]。 1955年には建築家の白井晟一が「原爆堂」計画を構想、その後、広島市が三滝に美術館建設の土地を提供するという話もあったものの、いずれも実現にはいたらず[28]、結局、位里と俊はみずから「原爆の図」を常設展示するための美術館を建てることに決め、1966年に埼玉県東松山市に移り住み、翌年5月に原爆の図丸木美術館を開設[29]。8月には美術館開館記念として宮島義勇監督による映画『原爆の圖』が完成した[30]。1970年には「原爆の図展」が初めてアメリカで開催され、ニューヨークのニュースクール・アートセンターをはじめ各地を巡回した[31]。
生涯丸木俊 / 位里の妻で「原爆の図」の共同制作者。丸木スマ / 位里の母で戦後に画家としての活動を始めたが非業の死を遂げた。
生い立ち
「原爆の図」以前
「原爆の図」制作と展覧会の開催
「丸木美術館」設立
Size:40 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef