丸岡 修(まるおか おさむ、1950年〈昭和25年〉10月20日 - 2011年〈平成23年〉5月29日)は、テロリスト・日本の新左翼活動家。日本赤軍の元メンバーで軍事部門の最高幹部だった。徳島県出身。ドバイ日航機ハイジャック事件、ダッカ日航機ハイジャック事件一味として国際手配され、1987年に東京で逮捕。 生家は徳島県の大地主で、父親は一家の当主かつ陸軍将校だったが、敗戦後の農地改革で没落し、一家は徳島を離れ、大阪で縫製業に就いていた[1]。その生家の環境及び、小学6年の担任が戦後も軍国主義者であり続けた右翼教師であったため、その強い影響で中学3年まで熱狂的な右翼少年であった[2]。五・一五事件や二・二六事件の青年将校に憧れ、自衛官を志望していたが、大阪府立清水谷高等学校入学後、ベトナム戦争に疑問を持ち、日本民主青年同盟やベ平連の会合に参加し[3]、羽田闘争での京都大学の学生山崎博昭の死に衝撃を受け[2]、高校を卒業後、1970年から大阪浪共闘に参加した。 ベ平連で市民活動家として活動しながら関西ブントの関西労働者学園[4]に於いて滝田修、藤本進治らに師事し、とりわけ藤本の「認識論」及び毛沢東の「実践論」、「矛盾論」を自らの思想信条と定めた[5]。1972年(昭和47年)、檜森孝雄
経歴
1987年(昭和62年)11月21日、丸岡は東京で警察に他人名義の偽造パスポートを所持していたことから逮捕された[8]。入国前に複数国の情報機関から丸岡らしき男が日本に向かうという情報が寄せられており、そのうちの一つの情報は丸岡が中国・北京でよど号ハイジャック事件のリーダー田宮高麿と接触した、という具体的なものだった[9][10]。沖縄県在住のスナック経営者名義のパスポートを持っていたが[11]、指紋の照合で本人であることが確認される。
この逮捕によって、丸岡が国内と東南アジアに合法・非合法両方の日本赤軍の支援組織を作ろうとしていたこと、沖縄県内の協力者の存在からフィリピンの泉水博の潜伏先が割り出された。そして金日成の指示で翌年に迫ったソウルオリンピックの妨害工作をするためにソウル行きを計画していたことが明らかになる[12]。1987年(昭和62年)6月にフィリピン人名義の偽造旅券で日本に潜入する前にマドリードで盗難に遭った元京都市議の旅券を基にした偽造旅券でタイやシンガポール、フィリピン、中国のほか、ヨーロッパ諸国など合わせて十か国を渡り歩いていたこと、東京で逮捕される直前の1987年11月にオーストリア・ウィーンに潜入していたことが1988年8月に判明した[13][14]。公安警察によると、丸岡は日本赤軍の非公然支援組織の一部とともに皇族を誘拐して、三菱重工爆破テロ事件を起こして死刑が確定した大道寺将司らを獄中から奪還するのが目的だったと判断している[15]。
ドバイ・ダッカの両ハイジャック事件に対するハイジャック防止法違反と、偽造旅券で帰国したとする旅券法違反の罪に問われ、1993年(平成5年)12月、無期懲役の判決を受けた。
1997年(平成9年)4月に控訴を、2000年(平成13年)3月に上告をそれぞれ棄却されて無期懲役が確定。