丸山_(神戸市)
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丸山(神戸市長田区大日丘町1丁目のY字路

丸山(まるやま)は、兵庫県神戸市長田区北部の地域名。
概要

丸山町や大日丘町、鶯町、檜川町、雲雀ケ丘、鹿松町など北部地域の15町を丸山地区と称する。元来は山岳地域であり、すり鉢状の急斜面に民家がびっしりと張り付くように並ぶ独自の景観を呈する。現在の町並みからは想像しにくいが、昭和初期には別荘地として開発され、遊園地料理旅館があり、「神戸の奥座敷」と呼ばれていた[1]急な階段が多い上に、私道が多く整備しにくく自動車も入りにくい地域が多い(檜川町)

急な階段が多い上に、私道が多く整備しにくく自動車も入りにくい地域もあるため、近年は人口が急減しており、高齢化率は1995年以降20年で24.25ポイント上昇し、40.1%となる。65歳以上の一人暮らしは約1000世帯で、全世帯数の5分の1を占める[1]

古くからコミュニティ活動が盛んな地区として、全国的にも知られている[2]

西丸山町の獅子ヶ池は、産業廃棄物の不法投棄により荒廃していたが、2003年より地元有志らによる「獅子ヶ池を美しくする会」の活動により廃棄物の撤去や環境保全が進められている[3]。「獅子ヶ池周辺里山整備・保全事業」は平成20年度手づくり郷土賞受賞 [1]。
地名の由来

東丸山町にある聖天山の、丸くこんもりと見えることから、地元でこの地域を『丸山』と呼ぶようになった[1]
人口

2015年国勢調査では10,457人。1995年には15,832人で、20年間で5,375人(34%)減少した。世帯数は、1995年の5,808世帯から2015年には4,682世帯と1000世帯以上(19.4%)減少した[1]
歴史

当初は、住宅地ではなく別荘地・行楽地として開発された[1]
丸山遊園地

1932年(昭和7年)長田区丸山町2に完成[4]。神戸市の人口増加に伴い、大正末ごろから「神戸土地株式会社」が開発を始めた。神戸の奥座敷として、旅館や温泉場が建設された時期に重なる。1928年(昭和3年)、神戸電鉄有馬線に鷹取道駅(現・丸山駅)が開通するが、その4年後に開業した。観覧車や乗り物はなく、大きな池沿いに遊歩道が整備され、ぼんぼりが立っていた。の名所として知られ、芸者を連れて花見をする客なども見られた。アヒルカモなど鳥類が飼われているミニ動物園のようなエリアやブランコなどの遊具があり、グランドには土俵が設けられ、大相撲の巡業が行われたほか、映画の上映などのイベントが行われた。しかし、遊園地としては10年足らずで廃園となった。第2次世界大戦中には、1942年に最大600人のオーストラリア兵が収容された捕虜施設「大阪俘虜収容所神戸川崎分所」となり、少なくとも51人が亡くなった。この場所は現在は市総合療育センターになっている[5]
鵯越大仏丸山の町を見下ろす場所に建立された鵯越大仏。丸山遊園地と同年の1932年の建立。

丸山遊園地が開業した同年の12月3日には鵯越大仏京都大覚寺門跡導師により開眼されている。
ご当地ソング

「長田丸山音頭」、「長田丸山小唄」(1932年(昭和7年))が存在した[4]。「雲か桜か ヨイトナー ツツジケ山か 長田丸山 花の山 花の山 ソレ ヨイトサノサー ヨイヤサノサー」「むかしゃ源平 鵯越も 今じゃ遊園」

などと歌われ、作曲は戦前期に活躍して多数の曲を残しながら突然姿を消した謎の作曲家近藤十九二である可能性が高いという。歌詞は少し稚拙な部分が残ることから地元の人ではないかと推測され、歌い手は花隈あたりの芸者ではないかと推測されている。昭和初期には全国的に新民謡が流行。多くの場合、発足や周年など、歌が制作されるきっかけとなった出来事があったらしく、作曲年が丸山遊園地が完成した年にあたることから、この2曲も遊園地の開設にちなんだものである可能性が高い(神戸市立博物館副館長 山崎整)[4]

戦後には別の「丸山音頭」が作曲され、盆踊りを踊っていたという[4]
年表

1932年(昭和7年)に丸山遊園地が完成[4]。12月3日には丸山を見下ろす鵯越大仏京都大覚寺門跡導師により開眼される。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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