丸山眞男
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丸山正雄」あるいは「丸山政男」とは別人です。

丸山 眞男1964年
人物情報
生誕1914年3月22日
大阪府
死没 (1996-08-15) 1996年8月15日(82歳没)
東京都
国籍 日本
出身校東京帝国大学法学部政治学科
学問
研究分野政治学日本政治思想史
指導教員南原繁
主な業績近世儒学の研究、超国家主義論、福澤諭吉論ほか
主要な作品『日本政治思想史研究』『現代政治の思想と行動』『日本の思想』(「である」ことと「する」こと
主な受賞歴第7回毎日出版文化賞1953年
第4回大佛次郎賞1977年
脚注父:丸山幹治
兄:丸山鉄雄
弟:丸山邦男
息子:丸山彰(数学者
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丸山 眞男(まるやま まさお、1914年大正3年〉3月22日 - 1996年平成8年〉8月15日)は、日本政治学者思想史家東京大学名誉教授日本学士院会員。専攻は日本政治思想史新字体で、丸山 真男とも表記される。

専門学問は、「丸山政治学」「丸山思想史学」と呼ばれ[1][2]経済史学者大塚久雄の「大塚史学」と並び称された。

ジャーナリスト丸山幹治の次男として生まれた。東大法学部を卒業し、長く教鞭を執り、のちに東大法学部長も務めた。師は南原繁

初期の代表作は『日本政治思想史研究』(1952年)。西欧思想と東洋古典の素養を兼ね備えた学識を持ち、戦後民主主義思想の展開に指導的役割を果たした。〈丸山学派〉と称される後進の研究者も輩出し、日本政治学界の量的な飛躍への貢献も大きい。
経歴
政治思想史研究へ

1914年(大正3年)3月22日、ジャーナリスト丸山幹治の次男として、大阪府東成郡天王寺村(現・大阪市阿倍野区)に生まれた。郷里は長野県で旧松代藩士族の家系。兄に芸能プロデューサー・音楽評論家の丸山鉄雄、弟に評論家の丸山邦男がいる。1920年、兵庫県精道尋常小学校に入学。1921年(大正10年)春、父が「読売新聞」経済部長となったため、東京四谷に転居、また四谷第一尋常小学校に転校。父の友人・長谷川如是閑らの影響を受け、大正デモクラシーの潮流のなかで思想形成をおこなう。1926年、東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)に入学、そして1930年、旧制第一高等学校を受験するが不合格、翌年(昭和6年)4月、一高文科乙類に進学。

1933年(昭和8年)4月10日、本郷仏教青年館で開催された唯物論研究会の講演会に参加。同講演会は警察の命令により、長谷川如是閑が挨拶を始めるや否や解散。聴衆の一人であった丸山は本富士警察署に勾留され、特高の取り調べを受ける[3]

1934年(昭和9年)に一高を卒業後、東京帝国大学法学部政治学科に入学。「講座派」の思想に影響を受ける。1936年(昭和11年)、懸賞論文のために執筆した「政治学に於ける国家の概念」[4]が、第2席A(第一席該当なし)に入選。『緑会雑誌』8月号に掲載される。これが認められて助手採用に内定する。

1937年(昭和12年)、大学を卒業し、南原繁の研究室の助手となる[5]。1938年、本来はヨーロッパ政治思想史を研究したかったが、日本政治思想史の研究を開始した。1940年(昭和15年)、「近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連」を『国家学会雑誌』(54巻2-5号)に発表。6月、東京帝国大学法学部助教授となる[6]。1941年、「近世日本思想史における「自然」と「作為」?制度観の対立としての」を『国家学会雑誌』に発表。

1944年(昭和19年)3月、友人小山忠恕の妹ゆか里と結婚。7月、「国民主義理論の形成」を『国家学会雑誌』に発表(後に「国民主義の「前期的」形成」と改題)。同7月、すでに30歳で徴兵年齢を過ぎていたが、陸軍二等兵として教育召集を受けた。思想犯としての逮捕歴を警戒した一種の懲罰だったとする見方もある[7]。大卒者は召集後でも幹部候補生に志願すれば将校になる道が開かれていたが、「軍隊に加わったのは自己の意思ではない」と二等兵のまま朝鮮半島平壌へ送られた[8]。9月、脚気のため除隊決定。11月、応召より帰還。

1945年(昭和20年)3月、再び召集される。広島市の船舶通信連隊で暗号教育を受けた後、宇品の陸軍船舶司令部へ二等兵として配属された。4月、参謀部情報班に転属。丸山は連合通信のウィークリーをもとに国際情報を毎週報告。入手した情報を「備忘録」と題するメモに残す[9]。6月に一等兵に昇進[10]8月6日、司令部から5キロメートルの地点に原子爆弾が投下され、被爆[11]。朝礼、点呼の時間で、丸山は司令部棟の建物の影となるところにいたため、爆風に晒されることは免れた。その日の記憶はショックでなく、8月9日に上官とカメラマンとで被曝地を歩いた[12]。丸山は、自分が兵隊で市民に対して傍観者のような立場にあったことからくる後ろめたさ、そしてたまたま建物のおかげで死ななかったことから被爆した死者に対する申し訳なさを抱え、戦後24年間、被爆体験を語ることをしなかった[12]

1945年(昭和20年)8月15日に終戦を迎え、9月復員した[13]。「上官の意向をうかがう軍隊生活は(大奥の)『御殿女中』のようだった」と座談会で述べたことがある。この経験が、戦後、「自立した個人」を目指す丸山の思想を生んだという指摘がある[14]
戦後

1946年(昭和21年)2月14日、東京帝国大学憲法研究委員会の委員となる。憲法改正の手続きについてまとめた第一次報告書を執筆。なお委員長の宮沢俊義は、委員会で丸山が提示した「八月革命説」を、丸山の承諾を得て「八月革命と国民主権主義」として論文発表している(『世界文化』1946年5月号)[15]。「超国家主義の論理と心理」を『世界』1946年5月号に発表[16]。以後、戦後民主主義思想の進展に指導的役割を果たす。この時期には、静岡県三島大社境内に庶民大学(公開講座の先駆け)を設け、全国各地を巡り講義を行う。


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