丸山城_(伊賀国)
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logo丸山城
三重県
丸山城の石標(天守台に建つ)
別名丸山城
城郭構造段状削平連郭式山城、丘城
天守構造不明(三層の複合天守が建っていた可能性あり)
築城主北畠具教
築城年1576年(天正4年)
主な改修者織田信雄
主な城主滝川雄利
廃城年不明(1584年(天正12年)の可能性あり)
遺構天守台、台、土塁堀切、出丸
指定文化財なし
再建造物なし
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度42分8.496秒 東経136度9分46.164秒 / 北緯34.70236000度 東経136.16282333度 / 34.70236000; 136.16282333
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丸山城(まるやまじょう)は、三重県伊賀市枅川(ひじきがわ)[1]にあった日本の城
概要

丸山城は伊賀盆地の中央に位置し、標高180-210mの独立した丘陵に築かれた。城名については、城山が丸い形をしていたことから名づけられている。周辺の水田との比高は20-60mで、丸山の最高所213mに天守台を設け、丘陵全体に大小の曲輪を配置し、当地域では最大規模になる。伊賀国の中世城郭は単郭方形構造の中心に居館を持つのを基本形式にしているが、本城は軍事施設としての大規模な城郭で、比自岐川、木津川が堀として機能を果たし、天然の要害でもあった。また比自岐川の対岸には、滝川三郎兵衛城、嵯峨尾主馬城と呼ばれる小規模城郭が認められる。
沿革織田信雄画像

伊賀国で国司北畠具教が隠居城として1575年(天正3年)に築城を決め、同地域の土豪を説得、翌1576年(天正4年)正月より人夫衆を動員し作事を行ったが、織田信長と不和になり三瀬館に引き上げた。

北畠氏養子となっていた織田信長の次男・北畠信意(織田信雄)は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を狙っていたが、1578年(天正6年)2月、伊賀国の郷士下山甲斐が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄は同年3月家臣滝川雄利に丸山城の修築を命じた。

これを知った伊賀国郷士衆は驚き、丸山城の西にある天童山に密偵を送り、築城の様子をうかがった。この時の様子が、「丸山城指図 山城也、此山根置周取廻六百九十六間、山下地形よ里山までの高サ三十間有南方を正面とす 麓より二の丸へ越登道九折にして六十九間 山下整地広さ南北四十四間 東西二十五間 右整地之内に三層の殿主あり天守台六間四方台の高さ三間四方石垣なり」(『伊賀旧考』)城跡がある丸山(丸山城北側より撮影)

とあり、3層の天守や天守台は石垣で固められ、また二の丸への登城道は9回折れているなど、規模壮大な城であったと記されている。

これに驚いた伊賀郷士11名が集まり、完成までに攻撃することを決めた。丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、同年10月25日に攻撃を開始した。不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は混乱し、昼過ぎには伊勢国に敗走した。

天正7年(1579年)9月16日、北畠信意は8000兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し北畠信雄軍を伊勢国に敗走させた。第一次天正伊賀の乱と呼ばれている。

敗戦の報を知った織田信長は激怒した。天正9年(1581年)9月3日、再び北畠信意を総大将に5万兵で伊賀国に侵攻、同月6日より戦闘が開始され、各地で進撃し同月11日にはほぼ伊賀国を制圧した。同年10月9日には織田信長自身が伊賀国に視察に訪れている。第二次天正伊賀の乱と呼ばれている。織田信長は阿拝郡伊賀郡名張郡を滝川雄利に、山田郡織田信兼にそれぞれ与えた。「天正伊賀の乱」も参照
廃城

廃城は不明である。1578年(天正6年)の丸山城の戦いで廃城になったという説もあるが、「残る遺構から判断して築城半ばに廃城になった城とは到底考えられない」としていたり[2]、平定の後、信雄比城を滝川三郎兵衛尉雄親に給ふ、其後、雄親当国の諸士と累月戦ひ、国中悉く平きしかば信雄其考を感じ雄親を以て当国の守護とす(『諸国廃城考』)と記されていたりする。滝川三郎兵衛尉雄親とは滝川雄利の別名で、丸山城は滝川雄利に与え伊賀国の守護としたとある。これらの考察により、「伊賀の乱後伊賀守護となった三郎兵衛によって、本格的な築城が行われたと考えるのが妥当である」とし、丸山城の戦い後も存続していた可能性を示唆している[3]。丸山城に滝川雄利が居城し続けたとした場合、織田信雄と豊臣秀吉の対立が進んだ1584年(天正12年)に滝川雄利が伊勢国松ヶ島城の城主として入城していることから、この時に放棄されたと考えられている。
城郭丸山城と周辺地域の空中写真/国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

丸山城は、後世の開墾等で改変を受けた箇所が若干あるものの、三重県でも非常に保存状態の良い中世城郭である。丸山の最高所に位置する天守台周辺が本丸と考えられ、ここから派生する西、南、北の尾根と丘陵斜面などの地形を利用し、大小の平坦地を設けた城郭となっている。本丸周辺は防御がかなり意識された縄張りとなっているが、本丸周辺外では単調な縄張りとなっている。
本丸

本丸(主郭)は東西幅最大で約60m、南北幅最大で約70mの不整形な平坦地となっており、西部分に高さ約4mの天守台を築いている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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