串カツ
[Wikipedia|▼Menu]

串カツ
浅草神谷バー」の串カツ
種類揚げ物カツ
発祥地 日本
関連食文化日本料理
主な材料



野菜



ウスターソース

その他お好みで



胡椒

タルタルソース

味噌

醤油

ゴマ

類似料理豚カツ
テンプレートを表示

串カツ(くしカツ)は、野菜などをに刺し、を付けて揚げた日本の料理。地域によって食材や調理法、飲食法や呼称などが異なる場合がある。
歴史

発祥は不明。同様な調理法の食品は明治末期から東京下町で食べられていたとの見解がある[1][2]
東京の既存証言[注釈 1]


「深川の高橋の通りは、夜店がにぎやかだったですよ。あそこで、子供のとき、はじめて洋食ってのを食べた。串かつだよ。二銭だったか、四銭だったか忘れたけど、子供が洋食食べたんです。」(『江東ふるさと文庫6』)岡島啓造氏は1903年(明治36年)東京深川生まれで、子どもの頃(明治時代末から遅くとも大正時代初め頃)に、串カツを食べてた回想記述[2]

「大正四、五年から八年頃は、露店で牛めしが三銭から五銭、焼トリは一銭で二本。私は露店の焼トリの中では、肉フライというのが好きでした。油がなくて紫色をしたきれいな肉で、それを中へさしてパン粉をつけてあげて二銭でした。ただのフライてえと、ネギと肉と交互にさしてフライにしてくれる。で、ソースが共同でドブンとつけてたべる。それが好きでね。そういうのが、いまの伝法院の西側の庭の塀にずっと並んでいたわけです。」(『古老がつづる下谷・浅草の明治 大正 昭和1』)久我義男氏の記述[2]

1921年(大正10年)の創作落語「犬の肉」の挿絵に描かれた、東京の串カツ(フライ)屋台の絵(吉岡鳥平『甘い世の中』著書内○○頁、国会図書館蔵)[2]

東京の屋台を描写した挿絵内に「洋食・イッピン料理・立ち食い」の文字(大道飲食店(二)一品西洋料理 『実業世界太平洋 1903年(明治36年)13号』より)[2]

関西進出の提案


高橋北堂『小資本にして一躍成金たる金儲』(1917年(大正6年)、大阪の成々堂書店)「次は即ち牛肉のフライ屋で之は東京では到る處に見受けるが、大阪にては未だ之を見ぬ」「此商売は前にも述べた如く、大阪京都には未だ始めて居るものがない。依っていずれの地にても適するから、関西に於て開始したならば、珍らしくて中々流行すること請合だ」[2]

関西への出店


1926年(昭和元年)「二カツ東京屋」創業。創業者、松下義信が大正時代初期に東京から大阪に移住し、屋台を引き始めた。「ええ、とても困りましたよ、二銭の串洋食と云つても、その頃はまだ理解されてゐませんでしたからね。あれは犬の肉だとか、猫の肉だとか云つて食つて呉れなかつたものです。働けど働けど、益々生活は困る一方です。」(東京屋松下義信氏を語る?穐村要作?『食通?1936年(昭和11年)7月号』)[2]

京都には大正時代に「一銭洋食」として伝わる[2]

東日本地区東京の串カツ

東日本地区(特に関東地方)においては、豚肉を3?4cm角に切ったものと、玉葱もしくは長葱を切ったものを交互に串に刺し、豚カツの要領でパン粉をまぶして揚げたものを「串カツ」と呼ぶ。惣菜として販売されるほか、定食屋やとんかつ専門店のメニューの一つとして千切りキャベツを添えて皿盛りで提供される。味付けにはとんかつソースや中濃ソースが用いられる。

この種の串カツが一般的な地方では、後述する大阪発祥の串カツのことは「串揚げ(くしあげ)」と呼んで区別することが多い。
中京地区矢場とん」のみそ串カツ

名古屋など中京地区どて煮とともに串カツを供する店で頼めば、どて煮の八丁味噌の煮汁に串カツを浸けてくれる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:31 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef