「中野栄治」とは別人です。
なかの えいじ
中野 英治
1935年の中野英治
本名中野 榮三郎(なかの えいざぶろう)
生年月日 (1904-12-05) 1904年12月5日
没年月日 (1990-09-06) 1990年9月6日(85歳没)
出生地 日本 広島県呉市
職業俳優、映画監督
ジャンル映画
活動期間1925年 - 1946年
活動内容1925年 日活京都撮影所、主演で映画デビュー
1930年 帝国キネマ演芸移籍
1931年 新興キネマ
1934年 第一映画
中野 英治(なかの えいじ、1904年12月5日 - 1990年9月6日[1][2])は、日本の俳優である。本名は中野 榮三郎(なかの えいざぶろう)である[1]。サイレント映画の時代に現代劇において、鈴木傳明、高田稔と並ぶスターであった[2][3]。 1904年(明治37年)12月5日、広島県呉市に「中野榮三郎」として生まれる[1][2][4]。小学校の終わりに海軍軍人だった父が退官し東京府東京市大井(現:東京都品川区)に引越す[5]。自宅の隣りが横沢三郎宅で、横沢らと旧制荏原中等学校で野球に熱中した[5]。横沢と競るのが嫌で、旧制法政大学予科に入学し[6]法大野球部で四大学リーグで活躍した[1][4][6]。 1923年(大正12年)の関東大震災で野球部が傾いている時、天勝野球団に「月給を百円やるから来い[7]」と買われて[4] 中途退学[6][8]。天勝の巡業先の地元チームと対戦した。天勝が渡米することになり、野球は置いていくことになってチームが解散[8]。東洋汽船に勤めていた兄の勧めで、海員研修所を卒業しインド洋航路の貨物船に乗り込むが逃げ出して、また野球をやったり、映画館の楽士をしたが[8]1925年(大正14年)、20歳のとき、天勝の友人に誘われ、野球好きのマキノ正博が野球部を強化していた日活の野球部に入社した[1][6]。どこかに籍を置けといわれギャラの高かった総出(俳優部)に籍を置く[6]。映画監督の村田実は少年時代の中野を知っていたこともあり誘われて[4]日活京都撮影所第二部(現代劇部)に所属。同年、日活が、松竹キネマ、東亜キネマと競作することになった吉田百助
人物・来歴
不良の代表、半分ヤクザ[10]、かつお洒落な"ドン・ファン大スター[10] としても知られた。お洒落は村田が親友の森岩雄と作った日活の企画会議「金曜会」で学んだと話しているが[4]、海外のファッション誌「ヴォーグ」や「エスクァイア」を丸善で購入して欧米の最新流行を研究して、鈴木傳明や阿部豊、滝村和男らと輸入品店で、ごっそり服を購入し後勘定で借金を踏み倒した[8]。ダグラス・フェアバンクスが来日して、鈴木が案内したときに着ていたオーバーは、中野がプレゼントしたもの[8]。石津謙介は中野をお洒落の手本にしたという[11][12]。色川武大は「私のような不良少年の大先輩、スタアというより、グレートガイ」と述べている[8]。中野自身は「一番お洒落で、本当の遊び人は、加賀まりこの親父、加賀四郎だった」と話している[8]。また中学生時代からいつもドスを持ち歩き、手が早いことで有名で、当時もっとも尖鋭な遊び場だった横浜本牧のチャブ屋を根城にして、喧嘩と女、活劇映画を地でいっていたという[8]。