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日本の政治家中野 正剛なかの せいごう
生年月日1886年2月12日
出生地福岡県福岡市西湊町
没年月日 (1943-10-27) 1943年10月27日(57歳没)
死没地東京都渋谷区代々木本町
出身校早稲田大学政治経済学科 卒業
前職ジャーナリスト
所属政党(無所属倶楽部→)
(革新倶楽部→)
(憲政会→)
(立憲民政党→)
(国策研究クラブ→)
(国民同盟→)
(東方会→)
(無所属→)
(翼賛政治会→)
無所属
称号勲四等瑞宝章
配偶者中野多美子
衆議院議員
選挙区福岡県第1区
当選回数7回
在任期間1920年5月10日 - 1939年4月11日
1942年4月30日 - 1943年10月27日
初代 東方会総裁
在任期間1936年5月25日 - 1943年10月27日
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中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月12日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は日本のジャーナリスト、政治家。東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。 旧福岡藩士・中野泰次郎とトラの長男として、福岡県福岡市西湊町58番地(現・中央区荒戸)の伯父・中野和四郎宅で生まれる。幼名は甚太郎。中野家は代々福岡藩の御船方であり、父・泰次郎の代に分家し福岡市西町(現・中央区今川)で質屋を家業としていた。母・トラは福岡県糸島郡元岡村(現・福岡市西区元岡)で醤油醸造業を営んでいた黨又九郎の長女。 幼少時より腕白坊主で、福岡師範付属小学校時代は同級生に緒方竹虎の兄・大象がいた[1]。14歳で福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に進学したが、幼少時から家業の質屋を毛嫌いし“質屋の甚太郎”と呼ばれるのが不快で、在学中の1903年(明治36年)に自ら正剛(まさかた)と改名する[1]。自分の生涯を正しく剛毅に行く抜こうという意志の表れだったが、“まさかた”と呼んでくれたのは母親だけで周囲は皆“せいごう”と呼んだ[1]。 中学校の柔道教師は飯塚国三郎で、柔道部に入部した中野は同級生の宮川一貫らと稽古に励んだ[1]。学校で柔道をやるだけでは飽き足らなかった中野は市内に土地を買い、「振武館」という道場を旗揚げして生徒仲間らと共に毎晩9時頃まで汗を流すという、到底14歳とは思えない行動力の持ち主でもあった[1]。カリエスを患い、1年間休学した。 1905年(明治38年)、修猷館を卒業後は早稲田大学政治経済学科に進学し、家族と一緒に上京している。修猷館時代に出会った緒方竹虎とは、早稲田大学や東京朝日新聞社でも行動を共にし、大学時代には2人で下宿をしていた時期もあった。 学費や生活費を稼ぐために、三宅雪嶺の『日本及日本人』に寄稿。そして、このことが縁となって、玄洋社を主宰する頭山満と知り合う。 1909年(明治42年)早大を卒業し、同級生だった風見章とともに、東京日日新聞(現・毎日新聞)を発行していた日報社に入社。次いで東京朝日新聞(東朝、現・朝日新聞)に移り、「戎蛮馬」のペンネームで「朝野の政治家」「明治民権史論」などの政治評論を連載し、政治ジャーナリストとして高い評価を得た。この間、1913年(大正2年)に三宅雪嶺の娘・多美子と結婚している。仲人は、頭山満と古島一雄であった。 1916年(大正5年)に東京朝日新聞を退職し、東方時論 しかし、日本外交を批判的に論考した『講和会議を目撃して』がベストセラーとなり、勢いをつけ、1920年(大正9年)の総選挙で当選する。以後、8回当選。当初は無所属倶楽部を結成するが、1922年(大正11年)に革新倶楽部結成に動く。その後も憲政会・立憲民政党と政党を渡り歩いた。1925年にカリエスが悪化し、左足を切断、義足となる。 民政党時代は、党遊説部長として、永井柳太郎と臨時軍事費問題や張作霖爆殺事件を田中義一内閣に迫り、反軍派政党人として名を馳せた。また、政府では、内務大臣だった濱口雄幸の推薦で、三木武吉の後任の大蔵参与官や逓信政務次官などを歴任した。 1936年(昭和6年)12月、挙国一致内閣を提唱していた親軍派の安達謙蔵と民政党を離党[2]、国民同盟を結成。さらに1936年(昭和11年)には、東則正と東方会を結成し自ら総裁となった。 1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)にかけて、イタリア、ドイツ両国を訪問し、ムッソリーニ、ヒトラーと会見、国際政治の動向について話し合う。秘書として中野に随行した進藤一馬(後の衆議院議員、福岡市長)はムッソリーニを「非常に気さくで体格のいい親しみのあるおじさんといったタイプだ」と言い、ヒトラーは「物静かで知性的な態度であった」と回顧している。
経歴
生い立ち・学生時代
ジャーナリストとしての活躍と政界進出
独伊への訪問