この項目では、ドイツ文学者・作家の中野孝次について説明しています。イギリス文学者・翻訳家の中野康司については「中野康司」をご覧ください。
中野 孝次(なかの こうじ、1925年(大正14年)1月1日 - 2004年(平成16年)7月16日)は、日本の作家、ドイツ文学者、評論家。元國學院大學教授。目次 著書『清貧の思想』、愛犬ハラス(柴犬)との日々を描いた『ハラスのいた日々
1 人物
2 略歴
3 著書
3.1 単著
3.2 共著
3.3 翻訳
4 編纂
5 その他
6 脚注
7 外部リンク
人物
『暢気眼鏡』の尾崎一雄を慕い、碁や焼き物も愛好した。
政治的には平和主義者であり、反核アピールでは井上靖・井上ひさし・大江健三郎と行動をともにし、大岡昇平に対しては弟子格の関係にあった。反核アピールは吉本隆明・柄谷行人らの批判を受け、柄谷とは1985年に『文學界』の企画で行われた座談会にて激烈な口論に発展した[1]。吉本隆明は、大江健三郎・中野孝次・埴谷雄高など左翼はずっと「戦争はダメ」「自分たちは平和主義者」と主張してきたが、それは「戦争自体がダメ」という観点とはまるで違い、そのことでいえば大江・中野・埴谷は全て落第と評価している。大江・中野・埴谷がやった反核運動で主張したことは、日本の米軍基地にアメリカの核兵器が持ちこまれ「けしからんから反対」ということだけであり、日本に照準を定めているソ連の極東地区の核弾頭ミサイルのことは何もいわなかった。社会主義のソ連は平和主義でいい国だけど、資本主義のアメリカは悪い国だという、ご都合主義・政策的・戦略的な平和主義が根底にあり、それは「戦争自体がダメ」という本当の意味での平和主義の模倣にすぎず、大江・中野・埴谷の3人は「戦争はダメ」「平和を守れ」と主張するが、戦争になれば、それまでの主張は忘れて、戦争を革命の絶好の好機と考え方を変えるに決まっている、と評している[2]。
略歴
1944年:千葉県市川市須和田出身。父は大工を職としていた。「職人の子に教育は不要」との父親の考えから旧制中学に進学できなかったが、1日14時間の猛勉強で専検に合格して旧制中学卒業資格を取得し、旧制第五高等学校(現在の熊本大学)に入学。
1950年:東京大学文学部独文科卒業、会社員となる。
1952年:國學院大學非常勤講師。
1953年:同専任講師。
1964年:同文学部
1972年:初の著書『実朝考』を刊行。
1976年:日本エッセイスト・クラブ賞受賞(『ブリューゲルへの旅』)。
1977年:初の小説「鳥屋の日々」を発表、芥川賞候補となる。
1978年:「雪ふる年よ」で芥川賞候補。『麦熟るる日に』を刊行。
1979年:平林たい子文学賞受賞(『麦熟るる日に』)。
1981年:國學院大學を辞職。
1982年:国際ペン大会東京大会に向けて「文学者の反核声明」の中心人物となる。
1988年:新田次郎文学賞受賞(『ハラスのいた日々』)。
2000年:芸術選奨文部大臣賞受賞(『暗殺者』)。
2004年:日本芸術院賞・恩賜賞を受賞する。同年に死去した。79歳没。
著書
単著
実朝考 ホモ・レリギオーズスの文学 河出書房新社 1972 のち講談社文芸文庫
絶対零度の文学 大岡昇平論 集英社 1976
ブリューゲルへの旅 河出書房新社 1976 のち文庫
我等が生けるけふの日 小沢書店 1978
麦熟るる日に 河出書房新社 1978 のち文庫
若き木下尚江 筑摩書房 1979
文学への希望 朝日選書 1979
うちなる山々 東京新聞出版局 1979 「山に遊ぶ心」と改題
花下遊楽 弥生書房 1980
苦い夏 河出書房新社 1980 のち文庫
季節の終り 講談社 1980
神々の谷 インド・ガンゴトリ紀行 河出書房新社 1981
一方通行路 小沢書店 1981
南チロルの夏 集英社 1982
人生を闘う顔 新潮社 1982 のち岩波同時代ライブラリー
西行の花 中世紀行 淡交社 1982
近代日本詩人選 20 金子光晴 筑摩書房 1983
対談小説作法 文藝春秋 1983
古典を読む 今昔物語集 岩波書店 1983 のち同時代ライブラリー