中野好夫
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生化学者の「中野善夫」とは別人です。

中野 好夫
(なかの よしお)
『現代随想全集 第20巻』(東京創元社、1954年)
ペンネーム淮陰生
誕生 (1903-08-02) 1903年8月2日
愛媛県松山市
死没 (1985-02-20) 1985年2月20日(81歳没)
墓地丹波篠山市の小林寺
職業英文学者
言語日本語
国籍 日本
最終学歴東京帝国大学文学部英文学科
活動期間1934年 - 1985年
主な受賞歴下記受賞歴参照
配偶者あり
子供中野好之(長男)
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中野 好夫(なかの よしお、1903年明治36年)8月2日 - 1985年昭和60年)2月20日)は、日本の英文学者評論家英米文学翻訳者の泰斗であり、訳文の闊達さでも知られている。東京大学教授・中央大学教授を歴任。
来歴『新選現代日本文学全集 第36巻』(1959年)より左から塩田英二郎、中野好夫、今東光(1959年)1965年、中野好夫は、野党4党と労組など5団体から成る東京都議会リコール署名団体の本部長に就任した。数寄屋橋公園の街頭で署名を訴える中野(1965年6月5日)。

愛媛県松山市生まれ。旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)在学中、スパルタ教育に反発して退学。のち旧制第三高等学校へ入学。旧制第三高等学校では野球部に入っており、野球部の1年先輩には戦前最後の沖縄県知事を務めた島田叡がいた[1]

第三高等学校卒業後に入学した東京帝国大学文学部英文学科斎藤勇に師事。同じ斎藤勇の弟子に平井正穂がいる。

1926年に卒業後、新聞社入社に失敗して千葉県の私立成田中学校に英語教師として赴任。1929年東京府女子師範学校府立二女教師、1932年から東京女高師教授などを経て、1935年から東京帝国大学助教授。その風貌とシニカルかつ骨太な性格から「叡山僧兵の大将」との異名を取った。この時期の教え子に木下順二丸谷才一野崎孝などがいる。

1945年、敗戦を機に社会評論の分野に進出。1948年から東京大学教授。この時期、太宰治の短篇「父」を「まことに面白く読めたが、翌る朝になったら何も残らぬ」と評したため、太宰から連載評論『如是我聞』の中で「貪婪、淫乱、剛の者、これもまた大馬鹿先生の一人」とやり返されたこともある。これに対して中野は、太宰の死後、『文藝』1948年8月号の文芸時評「志賀直哉と太宰治」の中で「場所もあろうに、夫人の家の鼻の先から他の女と抱き合って浮び上るなどもはや醜態の極である」「太宰の生き方の如きはおよそよき社会を自から破壊する底の反社会エゴイズムにほかならない」と指弾した。

1949年平和問題談話会に参加し、全面講和を主張。1953年「大学教授では食っていけない」との理由で退官し、『平和』誌の編集長となる(1955年まで)。朝鮮戦争による好況を背景に、1956年文藝春秋』2月号に発表した「もはや戦後ではない」という評論の題名は同年の経済白書に取り上げられ、流行語となった。[2]

1961年から翌年までスタンフォード大学客員教授。1965年から1968年まで中央大学文学部英文科教授。のち桃山学院大学教授。

1958年から1976年まで憲法問題研究会に参加。護憲、反安保、反核、沖縄返還、都政刷新を主張。沖縄問題への取り組みとして沖縄資料センターを設立、のち法政大学沖縄文化研究所に引き継がれた。

1965年5月24日に黒い霧事件を契機とする都政刷新都議会解散リコール統一本部が発足すると、同本部長に就任した。リコール署名運動は6月5日から開始されるが、6月14日、東京都議会は自主解散の道を選んだ。1967年3月16日、東京都知事選に向けた美濃部亮吉の選挙母体「明るい革新都政をつくる会」が結成されると、中野は大内兵衛市川房枝海野普吉松本清張柳田謙十郎らとともに代表委員に名を連ねた[3]

1968年2月金嬉老事件の際、鈴木道彦日高六郎中嶋嶺雄宇野重吉らと共に銀座東急ホテルで「金さんへ」という呼びかけで始まる文書をとりまとめて、後日文化人・弁護士5人がその文書を吹き込んだテープを持って、金嬉老を訪ね会見した[4]。詳細は「金嬉老事件#備考」を参照

1983年、無党派市民連合代表。1985年2月20日、肝臓がんにより死去。
人物・作品等

1976年から
エドワード・ギボンローマ帝国衰亡史』完訳を目指し、刊行開始したが、シリーズ全体の半ば(5巻目)で病没。元同僚の朱牟田夏雄が引継ぎ、次に長男中野好之が訳業を続け、1993年平成5年)に全11巻で完結した。

岩波書店のPR月刊誌『図書』に、1970年1月号から1985年1月号まで、「淮陰生」の筆名でエッセイ「一月一話」を連載した。連載終了時期やエッセイの内容、1995年に刊行された完本版の著作権表示が中野夫人になっていることから、中野の著作であることが確定している。

戦時中は日本文学報国会外国文学部会幹事長として戦争協力をしていたが、戦後は公的にその謝罪と贖罪につとめた。

三里塚芝山連合空港反対同盟戸村一作委員長が「空港建設反対」を掲げて参院選挙全国区に立候補した時には三里塚闘争を支持して推薦人に名を連ね、成田空港を生涯利用しなかった[5]

家族・親族

最初の妻である中野信子は土井晩翠の次女、土井英一の妹。


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