中野喜介
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なかの きすけ
中野 喜介

生誕孫應棟
(1906-07-05) 1906年7月5日
大韓帝国 忠清南道
死没 (1972-01-23) 1972年1月23日(65歳没)
日本 東京都立川市
国籍 日本
別名杉山応、川辺応、中野応棟
職業実業家
活動期間1931年 - 1972年
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中野 喜介(なかの きすけ、1906年7月5日[1] - 1972年1月23日)は、第二次世界大戦後の立川市の経済界で重きをなし、立川商工会議所会頭や全日本商店街連合会会長などを務めた、日本実業家[2]。占領期から、長らく「基地の街」であった立川市において、米兵相手の歓楽街の事業などを展開し、「夜の市長」、「市政の黒幕的存在」などとも評された[1]
経歴
生い立ちと戦時中までの経歴

中野が有力な実業家として活動していた時期の紳士録人事興信録』には、立川市出身とする記載がなされていたが、後には彼が朝鮮・忠清南道出身で、出生名を孫應棟といったことが明らかにされている[1]日本統治時代の朝鮮で育ち、日本語朝鮮語も堪能であった[1]

『人事興信録』によれば、1925年に「神田工手学校」を卒業し、1931年に立川タクシーを設立したという[1]

昭和初年には、当時の配偶者の姓から杉山応と名乗り、タクシー2台を運行する杉山タクシーという事業をおこなっていたという[1]。タクシー業は、1937年にガソリンの統制が始まる頃まで続けていた[1]。その後、青梅芸妓と結婚して川辺姓となり[1]、川辺応棟とも称されるようになった[3]
占領期における活躍

日本の敗戦によって連合国軍による占領が始まると、立川飛行場には多数の米軍将兵が駐屯するようになった。当時の中野は、朝鮮姓を名乗る第三国人として、いち早く米軍相手の事業を手がけ始めた[1]。警察関係にも人脈を築き、当時の国家地方警察立川警察署の有力者に強い関係を持っていた[1]

戦後の混乱期に、当時の立川の有力地主であった中野家と養子縁組した孫應棟は、以降、中野応棟、さらに中野喜介として知られるようになる[4][5]

中野は、立川駅北口側の曙町にあった旧日本陸軍の将校宿舎を借り受け、ここに数百名の女性を集めて米軍将校相手のキャバレー「立川パラダイス」を開業した[6]。「パラダイス」は開業の翌年1946年には閉じられた。翌1947年、その跡地に中野を理事長を務める学校法人立川学園が、義弟の中野藤吾を校長とする「立川専門学校」を開設した[5]。この学校は、1950年に私立の「立川短期大学」へと昇格し、後に都に移管されて東京都立立川短期大学となった[5]

また、地域の商店街の組織化の中心となり、1947年には市内の17の商店会を束ねた立川市商店会連合会(後の立川市商店街連合会)を結成し、その初代理事長となった[7]

中野は1950年競輪場の建設を目指して事業を興したが、反対運動が起きて計画は中止に追い込まれた。しかし、この構想は、市が事業を8千万円で買い上げ、翌1951年の市営による立川競輪場の開設につながった[8]立川市錦町の日野橋交差点近くに、1967年に設置された中野喜介のブロンズ胸像。
高度経済成長期

1953年に立川商工会議所が設立された際、中野は初代会頭となった[9]

1959年鮎川金次郎の選挙違反事件で関係者が大量に摘発された際、中野も被買収容疑で逮捕され[10]、実刑は免れたものの有罪とされた[11]

中野は1960年には、東京立川ロータリークラブの創設を主導して、初代会長となった[12]

1962年寄合百貨店中武デパート立川駅北口に建設。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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