なかの しんじ
中野 信治
Shinji Nakano
中野信治 (2009年)
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1971-04-01) 1971年4月1日(53歳)
出身地 日本
同・大阪府高槻市
基本情報
F1での経歴
活動時期1997-1998
所属チーム'97 プロスト
'98 ミナルディ
出走回数33
タイトル0
優勝回数0
表彰台(3位以内)回数0
通算獲得ポイント2
ポールポジション0
ファステストラップ0
初戦1997年オーストラリアGP
最終戦1998年日本GP
テンプレートを表示
ル・マン24時間での経歴
年2005-2008,2011-2014,2016
チームクラージュ・コンペティション
クリエイション・オートスポルティフ
中野 信治(なかの しんじ、1971年4月1日 - )は、日本のレーシングドライバー。大阪府高槻市出身。 実父の常治も家業と兼業しながらFFスーパーシビックレースや全日本F2選手権などに参戦したレーシングドライバーであり、中野は父がレースに参戦する姿を鈴鹿サーキットで見て育つ[1]。1982年夏、11歳の中野を父がカート場に連れて行ったことがきっかけでレーシングカートを開始。それ以後は父が自身のレース活動を引退し、中野のカートチーム監督となりレースの参戦準備やマシン整備などを担当、まずは地方選手権から参戦をスタートする。なお、金石勝智や光貞秀俊は同じカート大会に参戦しており、光貞は地方選手権時代に参戦クラスも同じだったことがある[2]。 15歳の時に無限のカート活動のワークスドライバーに選抜されたのを機に、自身の将来を真剣に考え、将来レーサーとしてプロになりF1ドライバーになると決意する。その決意は普通の物ではなく、「絶対に実現させる」と意識を高める行動と志向を自分の中に作り、15歳ながら強固な決意だったと後年に自身で述懐している。周囲が楽しそうに遊んでいる多感な10代中盤にして、将来のF1を実現させるための継続した決め事として自宅内でストイックなフィジカルトレーニングも日々実行するようになっていたが、「やったからと言って行けるとは限らないけど、自分の意識を高める方法として私生活のなかに決めごとを作った。子供ながらに色々と真剣に考えてやっていた。」という[3]。1987年、香港で行われた国際カートGPで日本人初優勝(大会史上最年少優勝)を勝ち取った。 1989年、戸田レーシングより全日本F3選手権にデビュー。カート出身の中野はそれまで四輪に乗った事はなかったため、初めてミッション付きに乗った四輪デビューはこのF3マシン(ラルト・RT31 / 無限・MF204)であった[4]。コース幅が狭いため予選通過台数が少なくなる筑波大会では予選落ちを喫したが、それ以外は全て決勝レースを完走。第9戦西日本サーキットでは入賞直前の7位を記録した。 翌1990年、無限の本田博俊の勧めもあり、中嶋企画のマネージメントにより19歳で単身イギリスに渡り、野田英樹と共にロンドン郊外の中嶋悟の家に居候しながら、英語の習得を目指す武者修行に出る。レース参戦時の実務面は提携したイギリスのクリスタル・レーシングから出走し、フォーミュラ・ボクスホール・ロータス(FVL)に参戦。マシンは中嶋企画を支援するPIAAカラーとなった。シルバーストン・サーキットでヴィンセンツォ・ソスピリとルーベンス・バリチェロを破り1勝を挙げ、シーズンランキングでもソスピリ、ジル・ド・フェラン、デビッド・クルサードに続くランキング5位を獲得。なお、バリチェロのほかケルビン・バートなども同シリーズに参戦のライバルだった。 同年はヨーロッパのサーキットを数多く経験するためにフォーミュラ・オペル・ロータス・ユーロ選手権(媒体によりGMロータス・ユーロシリーズとも呼ばれる)にも参戦しダブルエントリーだった。こちらではFVLでもライバルであるソスピリ、ド・フェラン、バリチェロのほか、マルセル・アルバース、ケニー・ブラック、ペドロ・ラミー、アンドレ・リベイロ、ミハエル・クルムらと競い、腕を磨いた。同シリーズはF1のヨーロッパラウンドのサポートイベントとして同じ週末に同時開催されることも多く、F1パドックの様子を知ることもできた[5]。 1991年はオペル・ロータス・ユーロシリーズでの2シーズン目となり、ポール・スチュワート・レーシング(PSR)から参戦し、ポールポジションとファステストラップを1度ずつ獲得した。同年のPSRはクルサードが所属してイギリスF3選手権に参戦していたため、中野は1年間クルサードと同じ部屋で生活するルームメイトでもあった[6]。2年のイギリス生活を経て、英語力も中野の武器の一つとなった[3]。 1992年より、中嶋企画から全日本F3と全日本F3000にダブルエントリーすることが発表された。しかし、特にF3においてはチームが採用した新車であるラルト・RT36がその前影投影面積の大きさから致命的なストレートの遅さを抱え、旧型RT35を使用の他チームよりラップタイムで1秒、直線の長い富士では2秒以上離されることが続くなど苦戦[7]。RT36を開幕戦のみであきらめマシンをスイッチするチームが多い中、PIAAナカジマは使用を継続したため成績が出ず、第3戦富士では予選不通過に終わるなど他車のスリップストリームに入ることが出来ない致命的な直線の遅さに悩み続けた[8]。F3000でも悪循環が続き、同年をもって中嶋企画を離れる。 1993年より、スーパーノヴァ・レーシングへ移籍。参戦カテゴリーを全日本F3のみに参戦を集中させた。チームメイトは井上隆智穂。同年は2位表彰台を3度獲得するなど安定した結果を残し、ランキング5位を獲得。1994年からスーパーノヴァが井上とヴィンセンツォ・ソスピリの2台体制で国際F3000選手権への挑戦を開始するにあたり、国内のF3はシャシーメンテナンスを担当した元F1チームメカニックの藤池省吉が監督となり「シオンフォーミュラ Ltd.」へと引き継がれ、中野は引き続き全日本F3に参戦。第2戦富士にてポール・トゥ・フィニッシュで待望のF3初勝利を挙げるなどランキング3位を獲得した。同年の夏には全日本F3での走りを有望と見なされた影山正美・高木虎之介と中野の3名に全日本F3000選手権(後にフォーミュラ・ニッポンと改称)の第7戦鈴鹿ラウンドに参戦する機会を与えられた。 1995年、1月17日に発生した阪神・淡路大震災に見舞われたこの年、大阪を拠点とする名門スピードスターレーシング (SSR)より全日本F3000に参戦することになったが、震災の影響もあり、京都を拠点とする童夢とのジョイント体制となった。
経歴
カート
四輪デビュー/イギリス修行
F3/F3000
Size:143 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef