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中野会会長襲撃事件(なかのかいかいちょうしゅうげきじけん)は、1996年(平成8年)7月10日、京都府八幡市の理髪店で、五代目山口組若頭補佐・中野太郎が四代目会津小鉄系組員に銃撃された事件。中野は無傷であった。「京都事件」とも呼ぶ。 1992年4月、京都府で、五代目山口組中野会関係の不動産業者が四代目会津小鉄系組員に刺殺された。翌1993年の10月に会津小鉄組員が京都市の山口組系事務所を銃撃。さらに山口組系組員が滋賀県大津市の会津小鉄系組事務所の駐車場で会津小鉄系組員を射殺した。 1995年6月、山口組と会津小鉄の間で26時間以内に14件の発砲事件が起った。すぐに、山口組と会津小鉄は、手打ちを行った。そして7月、中野太郎の自宅に銃弾が撃ちこまれた。
中野太郎襲撃まで
8月25日午前4時10分、山口組藤和会山下組組員2人が、京都市左京区の山浩組事務所近くで、私服で警戒にあたっていた京都府警巡査部長を会津小鉄系組員と勘違いして射殺[1]。(山下組組員警官誤射殺事件)
1996年2月18日、山口組総本部で、山口組若頭補佐・桑田兼吉と共政会・沖本勲会長と会津小鉄若頭・図越利次(のちの五代目会津小鉄会会長。三代目会津小鉄・図越利一会長の長男)の五分の兄弟盃が、執り行なわれた。4月には宇治市のパチンコ店で会津小鉄系組員が射殺された。 1996年7月10日、京都府八幡市の理髪店で、散髪中だった山口組若頭補佐・中野太郎が、会津小鉄系組員に銃撃された。中野太郎のボディガードが拳銃で応戦し、会津小鉄系組員2人を射殺した。中野太郎は無傷であった。 1996年7月10日、図越利次ら会津小鉄最高幹部が、山口組総本部を訪れ、会津小鉄系組員が、中野太郎を襲撃したことを詫びた。山口組若頭・宅見勝は、図越利次らの謝罪を受け入れ、中野太郎と協議することなく、和解した。 中野太郎は、当事者である自分を抜きにした宅見勝の裁定に、激しい不満を抱いた。中野太郎と宅見勝は激しく対立し、やがて宅見若頭射殺事件へと発展してゆく。 中野は、自宅に戻ってすぐ、襲撃から僅か30分で宅見から無事を確認する電話を受けた。これに対して、中野は京都の出来事を大阪の宅見がここまで早く知ることが出来るはずがないとして、本件が宅見の仕業であることを確信したという。 これが宅見の暗殺に繋がり、延いては山口組内で主流派であった中野会と山健組が袂を分かち、トップを失った宅見組は跡目候補から脱落した。五代目渡辺も求心力が低下し、引退を早めた結果となった。 争いから距離を置いていた司忍率いる弘道会が山口組内で力を持つようになり、司忍の六代目就任の流れが作られた。司忍の露骨な身内贔屓により、かつての主流派である山健組や宅見組が冷遇されことが神戸山口組の分裂に繋がった。 一連の流れの中で、本件は現在までに繋がる山口組分裂の発端と位置付けられる出来事であった。
中野太郎襲撃
事件後
脚注^ 京都府警巡査部長の遺族は、五代目山口組・渡辺芳則組長の「使用者責任」の認定を求めて、損害賠償請求訴訟を起こした。
2004年11月、渡辺芳則は使用者責任を認定した最高裁判決を受けた。
これは最高裁判所が暴力団組長に対して使用者責任を認めた初の決定であった。
渡辺芳則は、この判決を受けると、長期静養を宣言して組の運営を執行部に委譲した
参考文献
『山口組 50の謎を追う』洋泉社、2004年、ISBN 4-89691-796-0
山田勝啓『五代目山口組の激流』双葉社、1998年、ISBN 4-575-28844-6