中野二郎_(大陸浪人)
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中野 二郎(なかの じろう、元治元年(1864年) - 昭和3年(1928年2月9日)は、大陸浪人東邦協会創立会員、東亜同文会会員。天門と号した。


目次

1 略歴

2 著作等

3 脚注

4 参考文献

5 関連項目


略歴

元治元年、会津藩士中野喜通の次男として会津若松に生れる。

東京師範学校を卒業し、小学校教員となる。

1884年(明治17年)、上海に渡航し東洋学館(興亜会上海分校)に投じる。間もなく、福州に赴き、小沢豁郎らに合流する。

荒尾精漢口楽善堂に拠ると、同所に加わる。岡本柳之助と交わる。

荒尾が日清貿易研究所を創設した1890年(明治23年)頃、郷里に帰り、雑誌を発行。支那問題を論じ、鈴木天眼白井新太郎の寄稿を得る。

1893年(明治26年)、札幌の北門新報記者となり、やがて社長となる。

日清戦後に対露策に転じ、1895年(明治28年)、札幌に露語研究会を設立。陸軍軍人も勧誘し、札幌偕行社内に露語講習会を開く。

1897年(明治30年)夏、県文夫とともに露領シペリア視察旅行。

北海道庁長官となった安場保和から支援を受け[1]1898年(明治31年)、札幌露清語学校を創立し、ロシア人・清国人を教師として招聘した。陸軍の委託生も教える[2]

1900年(明治33年)3月、露清語学校閉校。中野は北清事変を契機として北京天津付近を往来。

日露戦争後、間島方面の経営に向かい、天宝山銀鉱の経営を試みる。

1921年(大正10年)、脳溢血に倒れる。

1927年(昭和2年)2月9日、静岡県伊東町にて没する[3]

著作等

露国大蔵省編、中野二郎・県文夫訳『 ⇒
満洲通志』東京・東亜同文館、1906年(明治39年)4月

脚注

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^ 東京朝日新聞1898年(明治31年)5月14日7面「北海道官林と露語学校」、同1900年(明治33年)3月21日1面「露清語学校の閉校」。
^ 『東亜先覚志士記伝 下巻』「本庄堅宏」の項。本庄は中野から招聘され同校の校務を担当した。
^ 東京朝日新聞1927年(昭和2年)2月11日の会葬広告には、嗣子「恭平」、親戚総代「中野初太郎/橋本強造」、友人総代「男爵 林権助小川平吉小泉策太郎白井新太郎杉山茂丸」の名が列記されている。

参考文献

黒龍会編『東亜先覚志士記伝 下巻』黒龍会出版部、1936年、353?355頁「中野二郎(露清語学校創立、満、支、露)」。

関連項目

平塚常次郎 - 札幌露清語学校卒業生


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更新日時:2013年3月31日(日)03:17(日時は
取得日時:2014/09/14 05:09


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