中部配電
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中部配電株式会社本店跡地に建つ大津通電気ビル
種類株式会社
略称中配
本店所在地 名古屋市中区南大津通2丁目5番地
設立1942年(昭和17年)4月1日
解散1951年(昭和26年)5月1日
業種電気
事業内容電気供給事業
歴代社長海東要造(1942 - 1946年)
大岩復一郎(1946 - 1951年)
公称資本金2億625万円
払込資本金1億8583万7千円
株式数412万5000株
総資産3億5553万0千円
収入5185万6千円
支出4483万4千円
純利益702万2千円
配当率年率7.0%
株主数5万8128人
主要株主静岡市 (7.4%)、伊那電気鉄道 (4.2%)、帝国生命保険 (3.8%)、明治生命保険 (3.0%)、日電興業 (1.0%)
決算期3月末・9月末(年2回)
特記事項:資本金以下は1943年9月期決算による[1]
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中部配電株式会社(ちゅうぶはいでん かぶしきがいしゃ)は、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)から戦後の1951年(昭和26年)にかけて、中部地方愛知岐阜三重静岡長野各県を配電区域として営業していた電力会社である。配電統制令に基づき設立された配電会社9社の一つで、中部電力の前身にあたる。

本店は愛知県名古屋市。1942年4月に中部5県の主要配電事業者11社を統合して設立され、翌年4月までに管轄地域に残る配電事業をすべて吸収。全国規模で発電・送電事業を統合した日本発送電からの受電と小規模な自社発電所を電源に、当該地域の配電業務をほぼ一手に担った。配電区域は中部5県ではあるが県境によらない区割りがあり、静岡県の富士川以東や岐阜・三重両県の一部を含まない。

1951年5月、電気事業再編成令の適用により解散した。解散と同時に、中部配電のほとんどの事業と日本発送電の一部事業を引き継いで発電・送電・配電の一貫経営を担う中部電力が設立された。
概要

中部配電株式会社は、「配電統制令」(昭和16年8月30日勅令第832号)に基づき設立され、配電事業の統制のため配電事業を経営した電力会社である[2]。同令によって全国に9社設立された配電会社の一つであり[3]、中部配電は愛知県岐阜県滋賀富山両県に接する各1か村を除く)・三重県(南端部を除く)・静岡県富士川以西)・長野県の5県を管轄した[4]

配電統制令公布・施行後の1941年(昭和16年)9月、配電統制令に基づく逓信大臣の中部配電株式会社設立命令が静岡市市営事業を持つ)と伊那電気鉄道・揖斐川電気工業(現イビデン)・日本電力東邦電力中央電力中央電気中部合同電気長野電気矢作水力信州電気の民間10社、合計11事業者に対して発令される[5]。この11事業者により中部配電の設立準備が進行し[6]、翌1942年(昭和17年)3月30日名古屋市名古屋商工会議所にて創立総会が開催され、同年4月1日付をもって設立登記ならびに事業開始に至った[7]。設立当時の資本金は2億円[7]。本店は名古屋市中区南大津通に置かれた[8]

設立の時点においては、11事業者の統合(第一次統合)を実施したのみで管轄地域の配電統制を全面的に実現したわけではなかった[4]。そのため順次残存配電事業の統合(第二次統合)が進められ、1942年から翌1943年(昭和18年)4月までの間に計49事業者を統合して配電統合を完了した[4]。以後、全国規模で発電・送電事業を受け持つ日本発送電や一部残存した発電事業者から卸売りされる電力を中部配電が受電し、これを自社水力火力発電所で発電した電力とあわせて管轄区域の需要家に対して供給するという供給体制が確立された[9]。ただし一部大口需要家の工場は日本発送電からの直配であり[10]、他にも中部配電の配電業務が及ばなかった集落も存在する。

戦後の1946年(昭和21年)に配電統制令が失効したため特殊会社ではなくなり商法に準拠した通常の株式会社となる[11]。次いで1950年(昭和25年)11月、電力国家管理体制の廃止と電気事業の再編成を目的とする「電気事業再編成令」(昭和25年11月24日政令第342号)が公布され、これに基づき日本発送電と中部配電を含む配電会社9社の解散が確定する[12]1951年(昭和26年)5月1日、電気事業再編成が実行に移されて中部地方には発・送・配電一貫経営の電力会社中部電力株式会社が発足し[13]、それと同時に中部配電は資産負債のほとんどを中部電力へと継承して解散した[14]
中部配電の設立過程
中部地方における電気事業の発達名古屋電灯第一発電所跡地に建つ電気文化会館(1986年竣工)

1887年(明治20年)、愛知県名古屋市において名古屋電灯が設立された[15]。同社は2年後の1889年(明治22年)12月15日付で市内への電灯供給事業を開業する[15]。これが東京関西3都市に続く日本で5番目、中部地方北陸を含む)に限ると第一号となる電気事業である[15]。中部地方では5年後の1894年(明治27年)より後続事業の開業が相次ぐようになり、岐阜県では同年、静岡県では翌1895年(明治28年)、三重県では1897年(明治30年)、長野県では1898年(明治31年)に、それぞれ県内最初の電気事業が開業した[16]

日露戦争後の時期になると電灯や電動力の利用が全国的に本格化し[17]第一次世界大戦によって生じた大戦景気の下で一層の普及をみせた[18]。1910年代を通じて多数の電気事業者が起業された一方で既存事業者の規模拡大も顕著で、中には地域の中核事業者へと伸びるものも現れた[18]。中部地方においては名古屋電灯が他を圧倒する規模に拡大したほか、愛知県では豊橋電気岡崎電灯、岐阜県では岐阜電気、静岡県では静岡市営電気と富士水電・日英水電、三重県では北勢電気津電灯、長野県では長野電灯信濃電気諏訪電気伊那電気鉄道といった事業者が1910年代中に電灯数5万灯超という規模に達している[18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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