中部イタリア革命
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中部イタリア革命

1831年2月3日 - 1831年4月26日
場所中部イタリア諸邦
結果反乱は鎮圧され、革命は頓挫した。

衝突した勢力
中部イタリア諸邦の民衆 モデナ=レッジョ公国
教皇領
パルマ公国
支援:
オーストリア帝国
指揮官
フランチェスコ4世
チーロ・メノッティ
エンリコ・ミズレイ(イタリア語版)
フィリッポ・ブオナローティなどクレメンス・フォン・メッテルニヒなど
部隊
カルボナリ・革命勢力モデナ軍
教皇軍
パルマ軍
オーストリア帝国軍
戦力
不明不明
被害者数
不明不明

中部イタリア革命(ちゅうぶイタリアかくめい、イタリア語: Rivoluzione Italia centrale)は、1831年モデナ=レッジョ公国で最初に発生し教皇領パルマ公国にも波及した、武装蜂起を伴う民衆反乱である。カルボナリアポファジーメニが大きく関与し、複数のイタリア諸邦に加えフランスオーストリア帝国も巻き込んだ革命となった事から事態は大規模化・複雑化・長期化した。
背景

1820年代、立憲や独立を求めたナポリ革命シチリア革命ピエモンテ革命は悉く失敗した。その結果、それら革命の当事国となったサルデーニャ王国両シチリア王国だけでなく、中部イタリアの諸邦でも反動的な政治が展開された。立憲主義者は厳しく弾圧され、カルボナリ関係者は逮捕や処刑が相次ぎ、苛烈な政策によって蜂起は事前に防がれた。モデナ公フランチェスコ4世

モデナ=レッジョ公国を支配するモデナ公フランチェスコ4世もまた革命思想を激しく弾圧する保守的な君主の一人であったが、一方でイタリア半島地域大国的な存在であるサルデーニャ王国の王位を望んでいた。そのためカルボナリ党員で立憲革命を志すエンリコ・ミズレイ(イタリア語版)と個人的に接触し[1]、革命派の期待を自らに集めることによって民衆の支持を得て北イタリアの王となる思惑から、一転して革命派やカルボナリへの支援を始めた[2]。このフランチェスコ4世の思惑は、ギリシャ独立戦争を契機として勃発した露土戦争の結果、オスマン帝国領は分割され漁夫の利的にオーストリア帝国バルカン半島で影響力を強めていたことから、北イタリアが統一されオーストリア帝国からの支配から脱却できれば勢力均衡の観点から他の列強からの承認も得られると考えられ、実現性もあった[2][3]

時同じくしてフランスではフランス7月革命が勃発し、フランス王が革命家たちによって廃位されルイ・フィリップを戴く7月王政が成立した。1820年代の革命失敗による反動政治と苛烈な弾圧の結果、パリに亡命していたイタリア人革命家たちはルイ・フィリップと接近してモデナ公フランチェスコ4世を擁する革命に対する積極的な支援が得られるよう働きかけた。

この亡命者を取りまとめたのはフランス7月革命を契機にパリへと戻ったカルボナリ指導者のフィリッポ・ブオナローティであり、彼はイタリア全土での革命を志向した[4]。しかしイタリア、特にモデナ=レッジョ公国内にいる国内派は中部イタリアのみでの蜂起を画策しており、パリの亡命者グループとは摩擦が生じた[5]。また1829年にはエンリコ・ミズレイ(イタリア語版)の働きかけでパリには「イタリア解放委員会」なる組織が設立されており、そこでは立憲君主制によるイタリアの独立・統一・自由達成が目指されていた[1]。しかしブオナローティはナポリ革命ピエモンテ革命は君主や王族の裏切りによって失敗したとして立憲君主制に反対し、1831年1月10日にはイタリア解放委員会を解散して「イタリア解放者評議会」を結成した。これはイタリア統一の方針を共和制に向けるべく設立された組織であり、しかしイタリア国内ではモデナ公フランチェスコ4世をリーダーとして蜂起が依然として画策されていたことから、ここでも亡命者と国内派とで大きな齟齬が生じた[5]チーロ・メノッティ。
Geminiano Vincenzi画

国内派の主導者はミズレイのほかにもう一人、カプリ島出身の富裕な商人であるチーロ・メノッティがいた[6]。メノッティは頻繁にイタリアとパリとを行き来するミズレイに代わってボローニャパルママントヴァフィレンツェなど中部イタリアの主要都市を訪問し反乱委員会を結成させるなど、反乱の規模を拡大させるうえではミズレイ以上の働きをした。メノッティの構想はイタリアの全ての主要都市に地方員会を設けて、それぞれがパリに作られるイタリア統一に関する中央委員会に結び付き、各都市で連携を図りながらイタリアの独立・統一・自由を獲得するというものであり、その最終目標はローマを首都とした立憲君主制の樹立にあった[6][7]。この目標を達成するには蜂起だけでは不十分であり、ボナパルティストを計画に組み込む必要性を感じていた。そのためフィレンツェに赴いてルイ・ボナパルトと接触した。しかしこれはパリで亡命者グループに協力するルイ=フィリップを警戒させる結果を招き、フランスの大々的な支援はここで失った。また蜂起の準備が進む中でモデナ公フランチェスコ4世はオーストリア帝国からの警告を受け、浮足立っていた[8]

結果、1831年2月3日、モデナ公フランチェスコ4世はモデナでの決起寸前で革命派を裏切ってチーロ・メノッティら主要人物を逮捕した。モデナでの決起は本来2月5日に予定されていたものだったが、メノッティはモデナ公フランチェスコ4世の裏切りの可能性を事前に察知し決起を繰り上げていた[9]。しかし、この逮捕は蜂起を止めるにはすでに遅かった。
革命モデナ公によるメノッティら革命家の逮捕。

メノッティらが逮捕された翌日の2月4日、教皇領ボローニャでは蜂起が成功してしまい、武装したボローニャ市民がモデナに向かい始めた。恐れをなしたモデナ公フランチェスコ4世はメノッティを人質として連れたままマントヴァに逃れ[9]、君主不在となったモデナではフランチェスコ4世の逃亡がビアージョ・ナルディ(イタリア語版)に宣言された後[10]、ヴィンチェンツォ・ボレッリ(イタリア語版)を総裁とする革命政府が樹立された[11]


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