中薗英助
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中薗 英助(なかぞの えいすけ、男性、1920年8月27日 - 2002年4月9日)は、日本小説家推理作家福岡県出身。本名:中園 英樹(なかぞの えいき)[1]
来歴・人物

旧制福岡県立八女中学校(現福岡県立八女高等学校)卒業。在学中、西洋史を教わった渡辺啓助の影響で『新青年』を愛読するようになる[1]。卒業後は満州を経て北京へ遊学し、同仁会語学校などに学ぶ。

1940年北京大学の文学院を聴講しながら『東亜新報』の学芸記者となる[1]。かたわら同人誌『燕京文学』に加わり、創作活動を開始。1942年、「第一回公演」で北支那文化賞を受賞[1]

1946年引き揚げ帰国し、新聞記者を経てフリーのジャーナリストとなる。

1950年、『近代文学』に「烙印」を発表[2]1954年、初の探偵小説「死電区間」を『中央公論 文芸特集』に発表[3]。また『密書』(1961年)、『密航定期便』(1963年)は、当時、まだ日本では珍しかったスパイ小説で、新保博久は「この分野にいち早く鍬を入れた」とそのパイオニアとしての功績を評価している[4]

1963年アジア・アフリカ作家会議に加わる[1]1974年には大江健三郎小田実などとともに日本アジア・アフリカ作家会議設立の呼びかけ人となった[5]

1981年、『闇のカーニバル』により日本推理作家協会賞評論その他の部門受賞。

1988年、41年ぶりに北京を再訪、それを元にした「北京飯店旧館にて」を『中央公論 文芸特集』に発表。1993年、同作を含む連作小説集『北京飯店旧館にて』で読売文学賞受賞。

1995年、『鳥居龍蔵伝』により大佛次郎賞受賞。

2002年4月9日、肺炎により死去[3]。81歳没。

2012年3月3日から4月22日まで、神奈川近代文学館にて「没後10年 中薗英助展 ―〈記録者〉の文学―」が開催された[2]
著書

『彷徨のとき』(1957年、森脇文庫)

『死電区間』(1959年、現代社)

『密書』(1961年、
光文社カッパ・ノベルス

『炎の中の鉛』(1962年、三一新書

『密航定期便』(1963年、新潮社ポケット・ライブラリ)

『予告電話の女』(1964年、芸文社

『架空スパイ 実戦スパイ』(1967年、現文社)

『夜の培養者』(1968年、読売新聞社→現代教養文庫)

『現代シベリア』(1968年、潮新書

『在日朝鮮人 七〇年代日本の原点』(1970年、財界展望新社)

『祭りの死ぬ日』(1971年、講談社

『裸者たちの国境』(1975年、河出書房新社

『ヨーロッパ無宿』(1976年、日本経済新聞社

『エサウの裔』(1976年、河出書房新社)

『わが文学的フロンティア 中薗英助エッセイ集』(1977年、研究社

『櫻の橋 詩僧蘇曼殊と辛亥革命』(1977年、第三文明社

『聖スパイ』(1977年、講談社→双葉文庫

『暗殺者の椅子』(1977年、KKワールドフォトプレス→双葉文庫)

『夜よシンバルをうち鳴らせ』(1978年、泰流社福武文庫)解説:檜山久雄

『密猟区 小説ミグ25亡命事件』(1979年、日本経済新聞社)

『小説円投機』(1980年、日本経済新聞社→現代教養文庫)

『闇のカーニバル スパイ・ミステリィへの招待』(1980年、時事通信社

『名誉白人』(1981年、新潮社

『密葬戦史』(1981年、双葉社→双葉ポケット文庫)

『拉致 小説・金大中事件の全貌』(1983年、光文社カッパ・ノベルス→現代教養文庫)

『拉致 知られざる金大中事件』(2002年、新潮文庫)解説:麻生幾


『現代スパイ物語』(1984年、講談社→講談社文庫

『黄金情報員』(1984年、光風社出版)

『オリンポスの柱の蔭に ある外交官の戦い』(1985年、毎日新聞社(上下)

『オリンポスの柱の蔭に 外交官ハーバート・ノーマンのたたかい』(1993年、社会思想社現代教養文庫、全1巻)


『聖臠伝説』(1986年、福武書店

『亡命ロマンス特急』(1987年、講談社→講談社文庫

『何日君再来物語』(1988年、河出書房新社→河出文庫七つ森書館


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