公用語中国語
首都南京
(1912年1月 - 3月)
北京
(1912年3月 - 1913年10月)
臨時大総統
1912年 - 1912年孫文
1912年 - 1913年袁世凱
国務総理
1912年 - 1912年唐紹儀
1913年 - 1914年熊希齢
面積
1912年11,077,380km²
人口
1912年432,375,000人
変遷
成立1912年1月1日
消滅1913年10月10日
通貨銀元
現在 中華人民共和国
中華民国(台湾)
モンゴル
ロシア
ミャンマー
アフガニスタン
タジキスタン
インド
中華民国臨時政府(ちゅうかみんこくりんじせいふ)は、辛亥革命中の1912年(民国元年)1月1日に南京で成立し、1913年(民国2年)10月10日まで存在した中華民国の臨時政府[1]。
1912年1月1日の成立から同年4月2日に臨時参議院で北京への政府移転が決議されるまでの期間は、南京臨時政府とも呼ばれる[1]。政府移転から袁世凱が正式に大総統に就任して北京政府(北洋政府)が発足する1913年10月10日までの期間は、北京臨時政府とも呼ばれる。 1911年(宣統3年)10月10日の武昌蜂起の影響を受けて清国内の省が独立を求めて相次いで蜂起し、10月10日の時点で独立した省は14省に達していた。これらの省をまとめるためにも、中央政府の樹立が急務となっていた。 10月中旬から下旬にかけて、各省はそれぞれ地方政権を樹立し、会議の開催地について電報を打ち合った。 10月27日、清政府は革命を鎮圧するため袁世凱を欽差大臣に任命し、11月2日には袁世凱と革命派の間で和平交渉が始まった。11月7日には湖北軍政府
歴史
背景
11月9日、中国同盟会の宋教仁と陳其美は南京を攻略するため江浙連合軍を組織し、革命の重心は武漢から南京に移った。これにより、同盟会は各省の代表会議の中で大きな勢力となった。11月14日、張謇、趙鳳昌ら立憲派は陳其美と代理人の?寰澄とともに上海の江蘇教育総会で会議を開き、会則、代表者名簿などについて話し合い、立憲派と同盟会の両者の折衷案の合意に至った。同日、江蘇都督の程徳全は、アメリカに滞在中の孫文に対し「事態が一段落ついたため、軍・政府・民政を即急に統合する必要がある。私が中国南東部の各軍政府に電報を打つので、孫中山氏には帰国して臨時政府を樹立して全体の指揮を執って欲しい。あなたは革命の創始者であると、国民も外国人も皆強く信じている。臨時政府を指揮するのはあなた以外にありえない。世論も同意しているだろう」と、帰国と革命への参加を要請した[3]。11月18日、江北総督の?雁行は「大総統の座に就くのは孫中山でなければならない」と述べた[4]。