この項目では、1948年に成立した中華民国政府について説明しています。
1913年から1928年まで存在した政府については「北京政府」をご覧ください。
1925年から1948年まで存在した政府については「国民政府」をご覧ください。
中華民国政府
中華民國政府
Government of the Republic of China
中央政府
中華民国国章
概要
創設年1948年5月20日
対象国 中華民国
地域台湾(自由地区)
政庁所在地台北市
現行憲法中華民国憲法(1947年 - )
中華民国憲法増修条文(1991年 - )
動員戡乱時期臨時条款(1948年 - 1991年)
政体半大統領制
代表中華民国総統
機関
立法府立法院
国民大会(1948年 - 2005年)
行政府行政院
司法府司法院
公式サイト
中華民国政府
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中華民国政府(ちゅうかみんこくせいふ、繁: 中華民國政府)は、中華民国憲法及び中華民国憲法増修条文に基づいて設立された中華民国の統治機構。 中華民国の政治
沿革
憲法施行以前
中華民国憲法
中華民国憲法増修条文
中華民国政府
総統蔡英文
副総統頼清徳
与党(少数与党)
民主進歩党
(立51 県市長5)
立法委員を有する野党
中国国民党
(立52 県市長14)
台湾民衆党
(立8 県市長1)
その他台湾関係記事
文化 - 経済 - 地理
政治 - 教育 - 軍事
人口 - 言語 - 交通
歴史
中華民国関係記事
中華文化
中国の歴史
国民政府(後の総統府、現:南京中国近代史遺址博物館)正門
1924年(民国13年)4月12日、孫文は「国民政府建国大綱」を作成し、国家建設の段階を「軍政(軍事力による国内の障害の排除)」「訓政(中国国民党による国民の権力行使の訓練)」「憲政(直接民主制の実施)」の三段階に区分した[1][2]。
孫文の死後の1925年(民国14年)7月1日、国民党はそれまでの軍事政権を再編して広州に国民政府を樹立し、中国全土の統一を目指して北伐を開始した。 1928年(民国17年)、?介石率いる国民革命軍が北京を占領して北洋政府を滅ぼし、国民党は「軍政の終了と訓政への移行」を宣言した[3][4]。
国民政府の運営における主要な意思決定者は国民党内から選出された国民政府委員で構成される国民政府委員会であり、その代表者は国家元首である国民政府主席であった[5]。1928年10月4日に施行された「中華民国国民政府組織法」に従って行政院、立法院、司法院、考試院、監察院が設置され[4]、国民政府委員会と合わせて現在の「一府五院」体制の原型を構成したが、政治権力は依然として国民政府委員会が握っていた。外交と軍事は国民政府主席と国民政府委員会が担当し、内政は行政院が担当していた。国民政府主席、各院長および副院長は全て国民政府委員会によって選出された。
1931年(民国20年)6月1日、憲法制定までの間の最高法規として「中華民国訓政時期約法(中国語版)」が施行された。
1932年(民国21年)12月、国民党中央執行委員会の会議にて、早急に憲法を起草し、国民大会を召集することが提案された。 翌1933年(民国22年)に立法院は憲法起草委員会を設置し、憲法草案の制作が進められた。1936年(民国25年)5月5日、「五五憲草(中国語版)」と呼ばれる憲法草案が公布された。同年11月に国民大会を招集して「五五憲草」の承認を行う予定だったが、選挙の準備が遅れた上に翌1937年(民国26年)7月7日に日中戦争が勃発したため、憲法の制定は延期となった[4][1]。
戦争が終結した1945年(民国34年)の10月10日、国民政府と中国共産党との間で双十協定が締結された。協定の規定に従って1946年(民国35年)1月に政治協商会議(中国語版)が開催され、五権分立、基本的人権、総統制の採用などを内容とする「修憲十二原則」が可決された[6]。しかし、当時国民党との対立が深まっていた共産党と中国民主同盟は11月15日に開催された制憲国民大会への参加を拒否した[7]。結果的に国民党や中国青年党、中国民主社会党などのみが参加した制憲国民大会において、12月25日に「中華民国憲法」が制定された。「中華民国憲法」は1947年(民国36年)1月1日に公布され、同年12月25日に施行された。
憲法施行以降初代正副総統就任式典での?介石と李宗仁(1948年5月20日)