中華民国とバチカンの関係
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中華民国とバチカン市国の関係



中華民国
バチカン
在外公館
在バチカン中華民国大使館在台北バチカン大使館
外交使節
大使 李世明
(Matthew S.M. Lee)臨時代理大使 アルナルド・カタラン(ポーランド語版)[注 1]
(Arnaldo Catalan)

本項では、中華民国バチカン市国の関係(中国語: 中華民國?聖座(梵蒂岡)關係, ラテン語: Sancta Sedes et Res publica Sinarum necessitudo, イタリア語: Il rapporto tra la Santa Sede e il Repubblica di Cina, ちゅうかみんこくとバチカンしこくのかんけい)について記述する。両国の関係は1922年に非外交レベルで、1942年に外交レベルで確立された。中華民国国共内戦に敗れて大陸を放棄して台湾島に移転した1949年以降は、台湾とバチカン市国の関係(たいわんとバチカンしこくのかんけい)として言及されることも少なくない。バチカン市国中華民国中国を代表する唯一の国家として認めており、中華人民共和国国家承認していない。
歴史

1917年バチカン市国と、1912年に建国されたばかりの中華民国は、外交関係を樹立することで合意に達した。だが、この動きはフランスが阻止した。1850年代清国の時代に、アロー号事件第2次アヘン戦争)が起きて、英仏が勝利、そののちの清仏間での天津条約 (1858年)に、中華地域のカトリック伝道団を「保護する」条項が含まれていたからである[1][2][3][4]

1922年チェルソ・コスタンティーニ司教が国内の教皇公使の責任者に任命された[1][2]コスタンティーニ大司教は外交的地位を持っていなかったが、中華民国政府は1925年孫文の葬儀において信任された外交使節団と同等の礼遇を行った[5]。コスタンティーニ大司教は1933年中華民国を去り、マリオ・ツァニン大司教に引き継がれた[6]

外交関係は1942年10月23日にようやく確立された[7]。そして、1946年アントニオ・リベリ大司教が?介石総統信任状を捧呈したことで、聖座の使徒代表団は中国における外交的地位を獲得した[8][9]

中華民国政府は1949年中国大陸から台湾台北に移動したが、その後混乱の時期があった。日本は3年後にサンフランシスコ条約により台湾ですべての権利権原、主張を放棄した。多くの外交使節団が政府に続いて台北に向かったが、バチカン市国の使節団は大陸に留まり、中国共産党が大陸に樹立した中華人民共和国(中共)政府との接触を求めたが、中共政府はリベリを外交官として受け入れず、1951年に国外追放処分とした。翌年、中共政府によって否定されたバチカン市国は、国共内戦での敗北後、台北に移り、すべての中国を代表すると主張し続けた前の政府(国民党政府)との関係を、従来通り中華民国として再開した[10]

国連は、その後約四半世紀にわたって台北に本拠を移した中華民国政府を中国を代表する政府として認識し続けた。しかし1971年10月25日国連の加盟国安全保障理事会常任理事国が北京の中共政府に移り、中華民国政府は国連から追放された(アルバニア決議)。バチカン市国は引き続き中華民国を完全に承認しているが、台北で市国を代表していた教皇大使を新しいポストに移動することにより、状況の変化を考慮に入れた。以来、台北における教皇使節の後継者は任命されず、臨時代理大使がその職務を代行した。一方、中華民国政府は、ローマにある駐バチカン市国大使館の地位に変更を加えなかった。

2005年4月8日中華民国総統陳水扁は、ヨハネ・パウロ2世教皇の葬儀に出席した。2013年3月、馬英九総統がバチカン市国を訪問し、フランシスコ教皇の就任式たる教皇着座式に出席した。しかし、教皇側からは台北を公式訪問したことが一度もなく、最も外遊の多い教皇ヨハネ・パウロ2世でさえ台北を訪問しなかった。

バチカン市国は大陸の中共政府(北京政府)との交渉を維持している一方で、中共との交渉が中華民国との関係を犠牲にして行われないことを中華民国に保証している[11]
ギャラリー

中華民国駐バチカン市国大使館

バチカン市国駐中華民国大使館

ヨハネ・パウロ2世教皇の葬儀で、台湾(中華民国)の陳水扁総統(左端)が国家元首として参列

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 参事官

出典^ a b Beatrice Leung, Sino-Vatican Relations (Cambridge University Press 1992 .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-0-52138173-4), pp. 42?44


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