中華人民共和国法
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中華人民共和国法(ちゅうかじんみんきょうわこくほう)は、中華人民共和国の法制度を概観する項目である。一般には中国法ということが多い。同国の実効支配地は、社会主義法系の中国本土英米法系でイングランド法の影響の強い香港大陸法系でポルトガル法の影響の強いマカオという、複数の法域に分かれているが、本稿では、中国本土の法制度を中心に取り扱う。
法の発展「中国法制史」も参照
前史

中国での法制度の起原は定かでないが、春秋戦国時代には、で「刑書」や「刑鼎」が制定されたとされている[1]李克が「法経」を編纂し、商鞅に改称したと伝わる。においても秦法が継受されたが、蕭何によって、9章からなる律が編纂され、これとは別に3編のがまとめられた[2]。これが律令の起こりである。西晋武帝により、律は刑罰法典、令は行政法典という範疇的分化が確立し、律・令を補充する法として、「故事」が制定された[3]。この故事は後に格式となり、律令格式の体系が整い、に継受されていく。格は当初律令の修正を担ったが、唐の開元25年以降は、律令格式の編纂は行われなくなり、格もが固定化するようになる[4]。そして既存の法典を修正するために、「格後勅」が別途制定されるようになり、五代時代には「編勅」に姿を変える。

においては、神宗まで唐以来の律令格式や編勅が主要法典とされていたが、元豊期を境に、「勅令格式」へと姿を変える。勅は刑罰法典を、令は教令的法典を、格は賞格・服式、式は書式に意味を変え、律の適用は勅に規定のない場合に限定されるようになる[5]

に入ると、勅令格式の法典は放棄され、唐代風の法典編参が試みられるようになるが、挫折し、行政法典たる「条格」と刑罰法典たる「断令」に収斂していく。条格・断令は律令のような法命題ではなく、個別具体的事例に即した判例法の性質を有した[6]

異民族王朝である元を倒したは、復古主義的態度を取り、律令法典の形式の復活を意図したが、編目や刑事法の基本を「条例」が担った点などで、元代の影響を強く受けた。明代の法典は基本的にはに受け継がれていくことになる。

清代においても明代同様、国家法は専ら公法分野に限られた。最も行政法分野に関して唐令のような法典の編纂作業が行われることはなく、行政組織法たる「会典」、行政機関ごとの先例をまとめた「会典事例」、新たに発生した先例を行政機関ごとにまとめた「則例」などの書物にまとめる形式を採った。刑事法は明代に引き続き「律」と「条例」が主要な法典をなし、後者が前者を補充する関係に立ち、修正は臣下が上奏し、皇帝が裁可する形で行われた。皇帝の意思表示は「論」「旨」「奏准」「題准」などの形式で行われ、このうち将来効を有するものを「通行」と称した。この他、法源として過去の事例(成案)や大清律輯註などの注釈書も参照された[7]
清朝末期

アヘン戦争太平天国の乱アロー号事件といった大規模な内憂外患に直面した清朝政府は、同治帝の下で洋務運動を展開し、国力の増大を図ろうとした。清朝政府が対応すべき喫緊の課題は西欧列強との間の個別の条約であったが、その過程で、近代的な西欧の法制度を学んだ者が現れていった。

日清戦争に敗北した後、清朝政府内部では変法運動が展開され、戊戌の政変という揺り戻しを経て、義和団の乱後に光緒新政が開始された。清朝政府は、岡田朝太郎、松岡義正、小河滋次郎志田ナ太郎の4人の日本人の協力を得て西欧の法制度を手本とした近代的法制度の構築に乗り出すとともに、科挙制度の廃止(1905年)、「立憲大綱」(同年)、「憲法大綱」(1908年)、「十九信条」(1911年)、「大清刑律草案」(同年)といった立憲政治の確立に向けた努力を重ねた。こうした経過が、後に中国が大陸法圏の伝統を受け継いだ法制度を確立する下地となった。
辛亥革命から中華人民共和国の成立まで

辛亥革命後、中華民国政府は、「大清現行刑律」などの清朝時代の法令や「大清刑律草案」を援用して急場をしのぐことにした。北伐の完了後、国民党政府は、「訓政綱領」(1928年)、「国民政府組織法」(同年)をはじめとする各種法令の整備に着手した。1943年には、各種の不平等条約が撤廃された。しかし、中国共産党(中共)は、1949年2月に「国民党の六法全書を廃棄し、解放区の司法制度を確定することに関する指示」を発し、同年10月には中華人民共和国(共和国)政府が成立した。国民党政府が整備した法制度は、台湾に逃れた中華民国政府によって受け継がれた。
建国以降文化大躍進運動まで

共和国政府は、中国本土全域における実効支配を確立した後、1954年にソビエト連邦などの共産圏の先行例を参照して最初の「憲法」(54年憲法)を制定するなど、ソビエト連邦法(大陸法圏に属する)を手本とした法制度の整備を進めた。建国当初は、解放区(中華民国期に共産党が実効支配していた地域)で実践されていた法制度を引き継ぐ、三大立法(婚姻法、土地改革法、労働組合法)に代表される立法が行われた[8]。全体的には社会主義法=ソ連法の影響を強く受けた立法や司法及び法学が志向された[8]。しかし、その後の急進的な社会主義改造、反右派闘争や大躍進等の政治運動に翻弄された結果、三大立法と1954年の憲法制定を除いて目立った成果は上げられなかった[8]
大躍進以降文化大革命期まで

この時期は経済調整期といわれ、1950年代中期以降の急進的な社会主義運動のリバウンド期でもあり、民法、刑法、刑事訴訟法等の起草作業が活発に行われたもののいずれも成果に結び付かなかった[8]
文化大革命以降その終結まで

1957年6月の反右派闘争に始まる文化革命期には、「プロレタリアート独裁」の理念から導かれた「中共の国家に対する優位」が強調され、法秩序よりも中共の政策が優先された[8]。「政策は法の塊である」「無法無天」「造反有理、革命無罪」等のスローガンに代表される徹底した法ニヒリズムが蔓延した[8]。「大衆独裁」の名のもとに如何なる司法手続も踏むことなく人身の自由が侵害されたり、裁判所、検察院、警察が廃止されて「軍事管制委員会」に統合されたりする等、司法制度全体が著しく破壊された[8]。大学も封鎖され法学教育や法学研究も10年間の空白時期を迎えた[8]
文化大革命の終結と改革開放路線

1976年の文化大革命の終結とともに、一転して脱文化大革命が図られ、国防・農業・工業・科学技術のいわゆる「四つの近代化」や「民主と法制」が強調され始める[8]。1978年の中共第11期三中全会で「改革開放」政策すなわち経済体制改革(計画経済から商品経済・市場経済へ)と市場開放(外資の導入)が打ち出された[8]。1978年3月に3度目の「憲法」(78年憲法)が制定された後は、「人治」に代わる「法治」の必要性が広く説かれるようになり,共和国政府は,「刑法」(1979年),「刑事訴訟法」(同年)をはじめとする法制度の整備を再び進め始めた。1982年12月には4度目の「憲法」(82年憲法)が制定され、1999年の憲法改正では社会主義的法治国家の建設がうたわれた。
法源

共和国における法源には、中華人民共和国憲法を頂点として、法律、行政法規、地方性法規、自治条例・単行条例、行政規則などがある。立法法は、これらの法源の序列と相互抵触の場合の処理を規定する。

立法法は、国家主権、国家組織の形成・組織・権限、犯罪と刑罰、民事の基本的制度、訴訟・仲裁制度などは原則として法律によって規定すべきものとしている。「基本的な法律」(この概念を明確に定義した規定はない)は全国人民代表大会(全人代)が制定し、それ以外の法律は全人代常務委員会が制定する。

行政法規は、国務院が制定するもので、法律の細則や行政管理について、憲法及び法律に抵触しない限りで、制定する。行政法規は、「○△条例」という名称のときが多いが、「○△弁法」又は「○△規定」という名称のときもある。税制改革、経済制度改革、対外開放に関わる事項については、国務院は、暫定条例又は暫定弁法を制定する権限を有する。

地方性法規は、一級行政区又は主要都市の人民代表大会(人代)及びその常務委員会が、憲法、法律及び行政法規に抵触しない限りで、制定する。


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