中華人民共和国によるチベット併合
[Wikipedia|▼Menu]

チベット侵攻

時1948年 - 1951年
場所チベット
結果
十七か条協定の締結

衝突した勢力
チベット 中華人民共和国
指揮官
ンガワン・スンラプ・ストブ
ンガプー・ンガワン・ジクメ[1]
ラル・ツェワン・ドジェ[2] 毛沢東
劉伯承
張国華
範明
部隊
チベット軍中国人民解放軍
中国による平和解放記念碑
2001年にチベット「解放」50周年記念として設立された。

中華人民共和国によるチベット併合(ちゅうかじんみんきょうわこくによるチベットへいごう)とは、中国共産党チベットを軍事侵攻により支配するようになる過程を指す。

侵攻は、
チベットの東北部・東部に限る侵攻(1948 - 1949)

中央チベットに及ぶ侵攻(1950 - 1951)

の二段階に分類される。

中国では18世紀の雍正のチベット分割以来、後者の領域を「西藏」と名付けており、中華人民共和国は、後者を指して、特に「西藏和平解放/?????????????????????」(シーツァンホーピンチエファン/プーシーウェーチンドゥル)と名付けている[3]

「第一段階」では、中華民国青海省馬歩芳西康省劉文輝らを降してアムド地方やカム地方の北部・東部・南部を制圧[4]、ついで「第二段階」でチベット政府ガンデンポタンを屈服させ、カム地方の西部やウー・ツァン地方、ガリ地方を制圧[5]、これにより、中華人民共和国は、チベットの全域を制圧することとなった。

チベットおよび西側諸国では、この併合を「侵略」としているが[3]中国共産党は「西蔵人民」の「帝国主義侵略勢力および国民党反動勢力」からの「解放」と位置づけている。

これを契機として、中国政府とチベット政府ガンデンポタンの間で「十七か条協定」が「締結」され、チベット軍は中国人民解放軍に編入され(同協定第八条)、チベットの全域が中華人民共和国の支配下に入った[6]
背景

本節では、中華人民共和国によるチベット併合に先立つチベット各地の状況を概観する。

雍正のチベット分割(1723 - 1724)・分割(1724 - 1732)以降、チベットは西藏[7]青海と、隣接する中国の各省(甘粛四川雲南)に組み込まれた地域とに3分されていた。

西藏は、ガリ地方・ウー・ツァン地方・カム地方の西部などに相当。

青海は、アムド地方の西部・中央部、カム地方の北部に相当。

その他、アムド地方の東部が甘粛省の西南部に、アムド地方の南部が四川省の西北部に、カム地方の東部が四川省の西部に、カム地方の南部が雲南省の西北部に組み込まれていた。)

青海地方の状況

1860年代の回民の大叛乱ののち、中国西北の寧夏、甘粛、陝西等の各地方、および青海はイスラム教徒馬一族の支配下に入り、辛亥革命により清朝が倒れたのちもこの状況はつづいた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:105 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef