チベット侵攻
時1948年 - 1951年
場所チベット
結果十七か条協定の締結
衝突した勢力
チベット 中華人民共和国
指揮官
ンガワン・スンラプ・ストブ
中華人民共和国によるチベット併合(ちゅうかじんみんきょうわこくによるチベットへいごう)とは、中国共産党がチベットを軍事侵攻により支配するようになる過程を指す。
侵攻は、
チベットの東北部・東部に限る侵攻(1948 - 1949)
中央チベットに及ぶ侵攻(1950 - 1951)
の二段階に分類される。
中国では18世紀の雍正のチベット分割以来、後者の領域を「西藏」と名付けており、中華人民共和国は、後者を指して、特に「西藏和平解放/?????????????????????」(シーツァンホーピンチエファン/プーシーウェーチンドゥル)と名付けている[3]。
「第一段階」では、中華民国の青海省長馬歩芳や西康省長劉文輝らを降してアムド地方やカム地方の北部・東部・南部を制圧[4]、ついで「第二段階」でチベット政府ガンデンポタンを屈服させ、カム地方の西部やウー・ツァン地方、ガリ地方を制圧[5]、これにより、中華人民共和国は、チベットの全域を制圧することとなった。
チベットおよび西側諸国では、この併合を「侵略」としているが[3]、中国共産党は「西蔵人民」の「帝国主義侵略勢力および国民党反動勢力」からの「解放」と位置づけている。
これを契機として、中国政府とチベット政府ガンデンポタンの間で「十七か条協定」が「締結」され、チベット軍は中国人民解放軍に編入され(同協定第八条)、チベットの全域が中華人民共和国の支配下に入った[6]。 本節では、中華人民共和国によるチベット併合に先立つチベット各地の状況を概観する。 雍正のチベット分割(1723 - 1724)・分割(1724 - 1732)以降、チベットは西藏[7]・青海と、隣接する中国の各省(甘粛・四川・雲南)に組み込まれた地域とに3分されていた。 1860年代の回民の大叛乱
背景
西藏は、ガリ地方・ウー・ツァン地方・カム地方の西部などに相当。
青海は、アムド地方の西部・中央部、カム地方の北部に相当。
その他、アムド地方の東部が甘粛省の西南部に、アムド地方の南部が四川省の西北部に、カム地方の東部が四川省の西部に、カム地方の南部が雲南省の西北部に組み込まれていた。)
青海地方の状況
清国が滅亡したのち、ガンデンポタンはチベット全土の再統一をめざし、1933年には青海地方の南部(カム地方北部)の玉樹地方でチベット軍と青海軍が衝突したが、現状維持におわった。 雍正のチベット分割(1724年 - 1732年)の際に、西藏、青海のいずれにも組み込まれなかった各地の諸侯たちは、甘粛・四川・雲南など隣接する中国の各省に分属し、兵部を通じて土司の称号を与えられ、所領の安堵をうけることとなった。 19世紀なかば、ニャロン地方の領主グンポナムギャルが急速に勃興し、四川省に所属する諸侯を制圧し、清朝に対し册封と、征服地に対する支配権の確認を求めた。清の朝廷はグンポナムギャルを阻止し、清を宗主として仰ぐ諸侯を救援せねばならない立場にあるためこれを拒否したが、太平天国の乱や英仏とのトラブルをかかえており、グンポナムギャルをとがめて諸侯を旧領に復帰させる力はなく、解決をガンデンポタンに委ねた。 ガンデンポタン軍はディチュ河を東に越えてカム地方東部に侵攻、数年をかけてグンポナムギャルを追いつめ、1863年にグンポナムギャルの本拠ニャロンを攻略、グンポナムギャルに追われていた諸侯を旧領に復帰させた。清朝は、「四川省内の戦乱」を鎮圧したガンデンポタンに戦費を支払う余裕もなかったため、その代償として、ガンデンポタンによるニャロンの領有と近隣諸侯に対する支配権をみとめた。ガンデンポタンはニャロン・チーキャプ(総督府)
激動のカム地方東部:「四川省の西部」から「西康省」へ
清朝の東部チベット支配
清国は、中国における諸反乱をほぼ収束させると、清末新制に着手した。「清末新制」は、清国における国家体制の近代化であるが、チベット、モンゴルなどに対しては、従来中国とは別個の法制・行政制度のもと、盟・旗の長や土司職にある諸侯たち、ガンデンポタンなど、その民族自身による統治に委ねてきた体制を根本的に覆し、省・州・県を設けて中国に組み込むことを目指す、というものであった(東トルキスタンでは、すでに1878年に省制が施行され、行政機構の中国化が達成されていた)。
四川総督趙爾豊は、1905年、蜀軍(四川軍)を率いてカム地方の東部に侵攻、諸侯を軍事制圧したのち取り潰しを宣言しつつ西進、ニャロン・チーキャプを転覆してガンデンポタンの管轄領域の奥深くまで侵入し、1910年にはラサを占領するにいたった。ガンデンポタンの長ダライ・ラマ13世はインドへ逃れた。趙はカム地方の諸侯やガンデンポタンによる支配を排し、従来ガンデンポタンの統治下にあったカム地方西部とカム地方の東部をあわせた領域に「西康省」を、中央チベットには「西蔵省」を設けようと試みた。しかしながら1911年、中国で辛亥革命が勃発、趙は成都に戻ったところを革命派に殺害され、カム地方の東端からラサにいたるまでのチベット各地に趙が配置した軍事・行政機構は、チベット側の反撃により徐々に切り崩されていくこととなる。 チベット政府ガンデンポタンは、清国の滅亡にともなう中国側の混乱に乗じて反攻を開始、1913年にラサを奪還して独立を宣言するとともに、1917年 - 1918年、1931年 - 1933年にかけて、中華民国と戦火を交え、ディチュ河(金沙江)に至るまでのカム地方の西部に対する支配権を徐々に回復していった。
「西康省」をめぐるチベット政府ガンデンポタンと中華民国歴代政府の抗争