中臣名代
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 凡例中臣名代
時代奈良時代
生誕不明
死没天平17年9月19日745年10月18日
官位従四位下神祇伯
主君元正天皇聖武天皇
氏族中臣氏
父母父:中臣島麻呂
兄弟人足、名代、形見
伊賀麻呂、鳥長、鷹養、鷹主、松成、
竹成、田給、辛多太
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中臣 名代(なかとみ の なしろ)は、奈良時代貴族小錦上・中臣垂目の孫で、小山中・中臣島麻呂の子。官位従四位下神祇伯目次

1 経歴

2 官歴

3 系譜

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典


経歴

神亀5年(728年従六位下から四階昇進して外従五位下に叙せられる。これは中央貴族に対して初めて外位への叙位がなされた例であり、同時に巨勢少麻呂阿倍帯麻呂らの中央貴族が同じく外従五位下に叙せられている。またこの叙位にあたって、この位階に留まるべきでないこと、勤務の状況に応じて内位に叙するので努力を怠らないこと、についてのが出されている[1]。翌神亀6年(729年長屋王の変の後に行われた叙位において、先の外位叙位者と共に内位の従五位下に叙せられた。

天平4年(732年遣唐副使に任ぜられる(大使は多治比広成、判官は平群広成ら)。天平5年(733年)3月に従五位上に昇叙され、4月に難波津から4隻の船に分かれて出国し、8月に4隻とも蘇州の沿岸に漂着。天平6年(734年洛陽に入って皇帝玄宗への拝謁を果たす。のち蘇州から帰路につくが、この際には留学生吉備真備玄ムが帰国に応じた。しかし、東シナ海上で俄かに悪風が起こり4隻は互いに離れ離れになってしまう。11月に大使・広成の乗る第一船は種子島に無事漂着するが、副使・中臣名代の乗る第二船は福建方面に漂着し、一行は天平7年(735年)3月に長安に送り返された[2]。同年閏11月に副使一行は長安を発ち、唐朝の援助で船を修理し、天平8年(736年)8月に平城京に帰着した。なお、第三船で遭難漂流して崑崙国(チャンパ王国か)に漂着した上で軟禁されるが、脱出に成功し唐の欽州に滞在していた平群広成に関し、その知らせを受けた唐の宰相・張九齢が起草した勅書『勅日本国王書』[3]を名代一行が持ち帰っており、広成生存の情報を日本側が把握している。

天平8年(736年)帰朝の挨拶をするために唐人3人とペルシャ人1人[注釈 1]を率いて拝朝し、聖武天皇に謁した[4]。同年11月に渡唐の功労により三階昇進して従四位下に叙される。のち、神祇伯に任ぜられ、天平10年(738年)には右大臣橘諸兄らと共に神宝を奉るために伊勢大神宮に派遣されている。

天平12年(740年藤原広嗣の乱が発生すると、名代は乱に連座して流罪となり、天平13年(741年塩屋吉麻呂大養徳小東人らと共に配所に移された。

天平17年(745年)9月19日卒去。最終官位散位従四位下。
官歴

以下、『続日本紀』の記載に従う。

時期不詳:従六位下

神亀5年(728年) 5月21日:従五位下

神亀6年(729年) 3月4日:従五位下

天平4年(732年) 8月17日:遣唐副使

天平5年(733年) 3月14日:従五位上

天平8年(736年) 11月3日:従四位下(越階)

天平10年(738年) 5月24日:見神祇伯

天平13年(741年) 正月22日:流罪

天平17年(745年) 9月19日:卒去(散位従四位下)

系譜

「中臣氏系図」(『群書類従』巻第62所収)による。

父:中臣島麻呂

母:不詳

生母不明の子女

男子:
中臣伊賀麻呂

男子:中臣鳥長

男子:中臣鷹養

男子:中臣鷹主

男子:中臣松成

男子:中臣竹成

男子:中臣田給

男子:大中臣辛多太[注釈 2]


脚注
注釈^続日本紀』天平8年。唐人は唐楽の専門家でのちに貴族となった皇甫東朝。唐の僧侶で日本から伝戒師を委嘱された道?、のちに音博士となる唐出身の袁晋卿。ペルシャ人の李密翳は、松本清張歴史小説眩人』でも知られる人物で、2016年に出土した木簡にその名が確認された破斯清道との関連を推測する説がある。
^ 名は乎多太とも表記される。

出典^ 『続日本紀』神亀5年5月21日条
^ 『冊府玄亀』
^ 『全唐文』巻287「広成等飄至林邑国」
^ 『続日本紀』天平8年8月23日条


更新日時:2020年9月11日(金)22:08
取得日時:2020/11/30 13:21


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