中継ぎ
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「リリーフ」の語義については、ウィクショナリーの「relief」の項目をご覧ください。

「救援」はこの項目へ転送されています。「救援」の語義については、ウィクショナリーの「救援」の項目をご覧ください。
ブルペンで投球練習をするリリーフ投手。画像左外側にはブルペン捕手がいて投球を受けている

野球におけるリリーフ(relief)、救援(きゅうえん)または継投(けいとう)とは、先発投手の降板後、他の投手登板すること。

リリーフを担う投手を日本では「リリーフ投手」や「救援投手」、アメリカ合衆国(以下アメリカ)では「リリーバー(reliever)」などと呼び、その役割によって特別な名称が用いられる場合もある(詳しくはこちらを参照)。
概要

リリーフ投手は、試合途中にブルペンで投球練習を行い、あらかじめ出番に備えたうえで登板する。チームによってベンチ入り登録されるリリーフ投手の人数は異なるが、日本プロ野球(以下NPB)の場合は6 - 8人ほどである。シーズンあたりの試合数が160試合以上になり、また原則として引き分けもないため長時間の試合になりやすいメジャーリーグベースボール(以下MLB)の場合は10人ほどがベンチ入りしている。先発投手が先発ローテーションに従い中4日以上の間隔を空けて登板するのに対し、リリーフ投手は数試合連続登板することも多い。

野球関係者の間では「投手の肩は消耗品」という考えが根強く存在しているが[1]、特にリリーフ投手の場合はそれが顕著であるとされる。先述の通り、リリーフ投手は基本的に連日登板することが多い上、結果的に登板しなかった試合においても常に出番に備えておくことが求められることから場合によっては1試合に複数回の投球練習を行うため、実質的に相当数の投球を繰り返すこととなる[2]。加えて、より緊迫した局面での登板によって心身の疲弊が積み重なることもあって、最終的に選手生命に関わる大きな故障を引き起こしてしまい[3]、若くして現役引退を余儀なくされる選手や短い実働年数で衰えを見せる選手が少なくない[4][注 1]

加えて、元来リリーフ投手は規定投球回数を満たしにくいこともあり、その活躍度・貢献度を明確な数値として表すことは容易でなく、勝利数や奪三振数など伝統的に主要部門とされる投手記録では先発投手を上回ることが事実上不可能に近い。そのため、例えば日本では主に先発を務めていた投手が配置転換等でリリーフに回る際に「中継ぎ降格」などという表現される事もあるなど[5]、リリーフを先発と比べて格下に見る傾向が根強い。

しかし「投手分業制」が確立された2000年代以降は、先発投手の完投が減少するに従って優秀なリリーフ投手の存在がチームの勝率に与える影響も大きくなっている他[6][7]後述するようにリリーフ投手を表彰する各種タイトルも制定されるようになるなど、リリーフ投手の貢献度を評価するための環境が整いつつある。
また、2010年代後半に入ると、日本の高校野球においても継投策を基本とした投手分業制による起用法が見られるようになり[8][9][10]、特に、2022年夏優勝の仙台育英[11][12]2024年春優勝の健大高崎はいずれも「完投0」で大会を勝ち上がったことでも注目を集めた[13][14]
歴史
MLB

フィラデルフィア・フィリーズ監督のエディ・ソイアー(英語版)は投手のジム・コンスタンティー1948年よりリリーフ専門で起用しはじめた。コンスタンティーは1950年に16勝7敗22セーブ、防御率2.66を記録する活躍を見せ、最優秀選手にも選ばれた。さらにフィリーズはこの年のナショナルリーグで優勝した。

こうしたリリーフ専門投手の登場により、MLBでは1960年に非公式ながら最も優秀な抑え投手を表彰するファイアマン賞が制定された。さらに1969年には最多セーブが公式タイトルに制定された。

1974年にはマイク・マーシャルが106試合登板・15勝21セーブの成績を残し、リリーフ投手として初めてサイ・ヤング賞を獲得した。

また、1976年にはローレイズ・リリーフマン賞2005年にはDHL デリバリー・マン・オブ・ザ・イヤーという表彰がそれぞれ開始されていった。

1979年ニューヨーク・ヤンキースは7、8回にロン・デービスを、9回にリッチ・ゴセージを登板させる継投パターンを確立した[15]。この年14勝を挙げたデービスはセットアップマンの先駆となり、1981年には中継ぎ投手として史上初めてMLBオールスターゲームに選出された[15]

1986年にはジョン・デュワンとマイク・オドネルによってホールドという中継ぎ投手を評価するための指標が発明され、1999年から正式に集計が開始された。しかし、MLBの公式記録にはなっておらず、最多ホールドや最多ホールドポイントなどの公式表彰もされていない。

アメリカ野球殿堂入りを果たしているリリーフ投手は、1985年ホイト・ウィルヘルムを皮切りに、ローリー・フィンガーズ1992年)、デニス・エカーズリー2004年)、ブルース・スーター2006年)、リッチ・ゴセージ2008年)、トレバー・ホフマン2018年[16]マリアノ・リベラ2019年)の7人である。また、通算300セーブを達成した投手のことを「300セーブクラブ」と称することがある。
NPB

NPBにおけるリリーフ投手の草分けは、1950年代を中心に救援勝利数で史上3位となる98勝を挙げた大毎の荒巻淳1965年に20勝を挙げ「8時半の男」の異名をとった巨人の宮田征典(宮田の登板が大体この時間だったため)、同じく1965年に64試合に登板し、シーズンで挙げた18勝のうち17勝が救援勝利だった広島の龍憲一、「投手分業制」を体現して1966年から2年連続でオールスターゲームに出場した中日の板東英二が挙げられる。

1970年代までは、多くのエース投手がセーブポイントが付く場面での登板も含めて馬車馬のように投げていた(安田猛新浦壽夫など。60年代以前は勝利投手#救援勝利記録を参照)。一方で初期の代表的なリリーフ投手である南海ホークス佐藤道郎や、中日ドラゴンズ鈴木孝政といった投手は、谷間先発やロングリリーフなど「穴埋め」もこなしており、そのため最多セーブが先発投手につくことも、リリーフ投手が規定投球回数に達することもあった[注 2](NPBでは1974年に最多セーブが公式タイトルに制定されたが、こうした起用法もあり1976年(パは1977年)-2004年まで最多セーブポイントを指標とする最優秀救援タイトルに変わっていた)。


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