凡例中科巨都雄
時代平安時代初期
生誕不明
死没不明
改名巨都雄→善雄
官位従五位上・摂津介
主君桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇
氏族津連→中科宿禰
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中科 巨都雄(なかしな の こつお)は、平安時代初期の貴族。名はのち善雄(または吉雄)。氏姓は津連のち中科宿禰。官位は従五位上・摂津介。 桓武朝の延暦7年(788年)少外記に任ぜられ、延暦12年(793年)大外記に昇格する。この間の延暦10年(791年)巨都雄を含む兄弟姉妹合わせて7名が津連から中科宿禰に改姓している。延暦16年(797年)正月に外従五位下に叙せられるが、同年2月菅野真道・秋篠安人らと共に7年の歳月をかけていた『続日本紀』の編纂を完了して上表文を捧呈し、賞されてそれぞれ昇叙を受け、巨都雄は内位の従五位下に叙せられた。延暦17年(798年)巨都雄から善雄に改名し、延暦19年(800年)伊予介として地方官に転じた。 平城朝での動静は伝わらないが、嵯峨朝の弘仁5年(814年)皇太子・大伴親王の東宮学士に任ぜられ、弘仁8年(817年)従五位上に至る。また、時期は不明ながら摂津介を務めた。 漢詩人として、『凌雲集』『経国集』に漢詩作品が採録されている。 注記のないものは『六国史』による。
経歴
官歴
延暦7年(788年) 7月:少外記[1]
時期不詳:正六位上
延暦10年(791年) 正月12日:津連から中科宿禰に改姓
延暦12年(793年) 2月:大外記[1]
延暦16年(797年) 正月7日:外従五位下。正月13日:兼常陸少掾。2月13日:従五位下(内位)
延暦17年(798年) 5月26日:兼玄蕃助[1]。日付不詳:巨都雄から善雄に改名[1]
延暦19年(800年) 正月24日:伊予介[1]
弘仁5年(814年) 9月7日:東宮学士(皇太子・大伴親王)
弘仁8年(817年) 正月7日:従五位上
時期不詳:摂津介[2]
脚注^ a b c d e 『外記補任』
^ 『経国集』
参考文献
宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年
森田悌『日本後紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年