中田賢一
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中田 賢一福岡ソフトバンクホークス 
投手コーチ(ブルペン補佐) #71
現役時代
(2014年10月29日、福岡ヤフオク!ドーム)
基本情報
国籍 日本
出身地福岡県北九州市八幡西区
生年月日 (1982-05-11) 1982年5月11日(42歳)
身長
体重181 cm
84 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り2004年 ドラフト2巡目
初出場2005年4月3日
最終出場2020年9月20日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


福岡県立八幡高等学校

北九州市立大学

中日ドラゴンズ (2005 - 2013)

福岡ソフトバンクホークス (2014 - 2019)

阪神タイガース (2020 - 2021)

派遣歴


アギラス・シバエーニャス (2006)

コーチ歴


福岡ソフトバンクホークス (2022 - )

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中田 賢一(なかた けんいち、1982年5月11日 - )は、福岡県北九州市八幡西区出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。プロ野球コーチ。現在は福岡ソフトバンクホークス一軍投手コーチ。

妻はフリーアナウンサーの角野友紀[1]
経歴
プロ入り前

1982年5月11日福岡県北九州市八幡西区で生まれる。

1991年北九州市立永犬丸小学校3年時に父親がコーチ・監督を務める「永犬丸レッドライオンズ」でソフトボールを始め[2][3]1995年、北九州市立沖田中学校時代に「上津役ロビンス」へ入団し本格的に野球を始めた[2]

1998年4月福岡県立八幡高等学校へ進学。始業前の授業や夏休みの補習など進学校特有の授業構成の中、勉強との両立に苦しみながら練習を積んだ。下級生の間は三塁手兼控え投手だったが、2年秋からエースとなった[4]。3年春は県北部大会ベスト8、夏は県大会3回戦敗退と甲子園出場なし[2]。高校3年時での最高球速は130km/h台後半だった[5]

2001年4月北九州市立大学へ進学。2年春、秋と連続でリーグのベストナインを獲得[6]、3年時には最高球速が150km/hに達するまでに成長した。4年春には39年ぶりのリーグ優勝を果たし、全日本選手権に出場。リーグ優勝決定戦では、第1試合を9回完投し勝利を挙げると、45分の休憩後に行われた第2試合にも登板して延長11回を完投しサヨナラ勝ちに貢献、1日で計310球を投げ抜いた[4]。また最多勝、特別賞(リーグ通算300奪三振)、ベストナイン、MVPを獲得[6]。選手権では、初戦の創価大戦に勝利し神宮初勝利を挙げた[6][7]。また、夏には日米大学野球選手権大会に出場する日本代表にも選出された。4年秋は久留米大相手にノーヒットノーランを達成するも[2][8]、10月中旬に部員の不祥事発覚によりユニバーシアード記念九州大学野球選手権大会には出場できなかった[9]

11月17日のNPBドラフト会議で、中日ドラゴンズから2巡目指名を受け入団[10]。北九州市立大学から初めて直接プロ入りした選手で、北九州市立大出身のプロ野球選手は森山良二以来2人目[9]。背番号は20[11]
中日時代

2005年、球団の新人では1998年川上憲伸以来となる開幕ローテーション入りを果たし、開幕3戦目となる4月3日の対横浜ベイスターズ戦にプロ初登板初先発し、4回まで相川亮二のセンター犠牲フライのみの1失点だったが、3点リードの5回二死無走者から代打万永貴司に死球を与え連打で2点差、さらに満塁で佐伯貴弘の適時打で同点とされ降板、後続の鈴木義広高橋聡文に走者を返され4回0/3を投げ6失点の逆転負け[12]。先発2試合目となった4月15日の対阪神タイガース戦(ナゴヤドーム)では8回まで4安打無失点、その後9回に金本知憲に2点本塁打を打たれて降板したがプロ入り初勝利[13]。5月12日の対西武戦で5回2点ビハインドからリリーフとして初登板し、2イニングを無失点[14]。5月15日の対ソフトバンク戦では2番手でリリーフ最長となる4イニングを無失点[15]。5月22日の対ロッテ戦でプロ最短の2回2/3で7失点降板[16]、翌23日に二軍降格となった。この時点での防御率は6.25だった[17]。5月29日のウエスタン・リーグ公式戦・対広島東洋カープ戦に先発し4イニングを投げた後、右足内転筋に違和感を覚え、5月31日に「右足内転筋の肉離れ」と診断された[18][19]。8月4日のウ・リーグ対広島戦に先発し4回無失点、毎回の8奪三振[20]。再昇格した8月21日の対横浜戦で先発し7回無失点で勝利した[21]。この試合も含め先発6試合で6連勝し、ルーキーイヤーでの6連勝は1979年藤沢公也以来の球団タイ記録となった[22]。再昇格後の7試合は防御率1.78。新人王青木宣親だったが[23]中日スポーツ制定の昇竜賞新人賞を受賞した[24]

2006年、4月4日開幕第4戦の対横浜戦で先発したが4回途中で降板し1試合で先発ローテーションを外された。4月12日の対阪神戦で3点ビハインドから2番手で登板し、先発の走者は全て返したが、自身は2回2/3を無失点で[25]、4月18日から再び先発へ戻った。4月30日の対巨人戦でプロ初の中4日で先発し3回1/3を6失点[26]、5月3日に右手中指の爪割れと右足内転筋痛で出場選手登録を抹消された[27]。一軍復帰した7月8日の対横浜戦(長良川球場)で7回7点リードから3イニングを5奪三振無失点でプロ初セーブを記録した[28]。7月16日から再び先発ローテーションへ復帰、8月15日に1試合ロングリリーフでの登板(敗戦)があったが[29]、シーズン終了までローテーションを守った。9月12日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦(秋田県立野球場)ではプロ入り後初の完投勝利[30]クオリティ・スタート(QS)率64.7パーセントで7勝4敗。日本シリーズでは10月25日第4戦で初先発し、4回1失点で敗戦投手となる[31]。シーズン終了後、中里篤史らとともにドミニカ共和国ウィンターリーグへ参加し[32]、1試合に先発し3回1/3を投げ3失点、防御率8.10[33]

2007年、春は2月23日の紅白戦を最後に父の看病・葬儀などで戦列を離れ、3月5日から練習を再開した[34]。4月1日の開幕第3戦からローテーション入りし、先発で3連勝した[35]。しかし続く4月22日の対東京ヤクルトスワローズ戦では自己ワーストとなる10失点(自責10)[36]。変化球の制球に苦しみ与四球がかさみ、6月10日以降1か月以上勝ち星がつかない時期が続いた[37]。7月18日の対ヤクルト戦では6回1点リードの場面から救援登板し、2イニングを無失点に抑えてプロ入り初ホールドを記録した[38]オールスターゲームに監督推薦選手として選出され[39]、7月21日第2戦に2番手として初出場し1失点、2イニングで3奪三振[40]。8月19日の対横浜戦で先発し、プロ入り初となる2桁勝利を達成した[41]。シーズン終盤まで内海哲也奪三振王争いとなり、トップと11個差で迎えたシーズン最終登板の10月6日のヤクルト戦で、5回までで8奪三振だったが、クライマックスシリーズ(CS)へ向けての他投手の調整登板のため5回終了後に降板し初のタイトル獲得を逃す[42]。同年は1度も出場選手登録を抹消されず、自身がシーズン前に掲げた「2桁勝利と一年間一軍」という目標を全うし、チームトップ、リーグ2位タイの14勝を記録した一方、与四球・暴投数がリーグ最多となる[43]。また、奪三振率は9.35でリーグトップとなり、規定投球回数をクリアした投手の中では中日球団史上初めてとなる奪三振率9.00以上を達成した[44]CS第1ステージでは10月14日第2戦で先発して阪神打線を1失点に抑えCS初勝利[45]、第2ステージでは10月20日第3戦に先発して7回2/3を11奪三振で勝利し[46]、2試合ともに自身の勝利でステージ突破を決める。日本シリーズでは10月28日第2戦に先発し、8回を3安打1失点で日本シリーズ初勝利、チームは日本一となる[47]アジアシリーズでは11月8日第1戦となるSKワイバーンズ戦に先発したが、新井良太森野将彦の失策、谷繁元信捕逸と味方のミスが絡み6回3失点(自責1)で敗戦投手となった[48]


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