中田英寿
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中田 英寿

ロンドンチャレンジ沖縄(2012年
名前
愛称ヒデ、NAKATA
カタカナナカタ ヒデトシ
ラテン文字NAKATA Hidetoshi
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1977-01-22) 1977年1月22日(47歳)
出身地山梨県甲府市
身長175 cm
体重72 kg
選手情報
ポジションMF
利き足右足
ユース
1985-1988北新サッカースポーツ少年団
1989-1991甲府北中学校
1992-1994韮崎高校
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1995-1998 ベルマーレ平塚 85 (16)
1998-2000 ペルージャ 48 (12)
2000-2001 ASローマ 30 (5)
2001-2004 パルマ 67 (5)
2004→ ボローニャ (loan) 17 (2)
2004-2006 フィオレンティーナ 20 (0)
2005-2006→ ボルトン (loan) 21 (1)
通算288(41)
代表歴2
1991-1993 日本 U-176 (2)
1994-1995 日本 U-2012 (6)
1995-2000 日本 U-2312 (3)
1997-2006[1] 日本77 (11)
1. 国内リーグ戦に限る。2006年7月3日現在。
2. 2006年6月22日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

中田 英寿
YouTube
チャンネル

Hidetoshi Nakata Official

活動期間2019年9月18日 -
ジャンルサッカー
登録者数約9.42万人
総再生回数約1694万回
チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002022-12-26-00002022年12月26日時点。
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中田 英寿(なかた ひでとし、1977年1月22日 - )は、山梨県甲府市出身の元プロサッカー選手実業家、旅人。現役時代のポジションはミッドフィールダー。元日本代表国際サッカー評議会(IFAB)諮問委員・一般財団法人「TAKE ACTION FOUNDATION」代表理事・観光庁「アドバイザリー・ボード」メンバー・株式会社JAPAN CRAFT SAKE COMPANY代表取締役。

アジア史上最高のサッカー選手の1人とみなされており、1990年代後半から2000年代前半にかけての世界を代表するサッカー選手の1人である。日本代表のFIFAワールドカップ(以下W杯)3大会連続出場に貢献。FIFA100選。アジア年間最優秀選手賞2回。イタリア政府よりイタリア共和国功労勲章(カヴァリエーレ)受章。U-17世界選手権(現在のU-17W杯)[注 1]ワールドユース(現在のU-20W杯)[注 2]U-23オリンピック[注 3]コンフェデレーションズカップ[注 4] 、W杯[注 5] 、以上のナショナルチーム主要世界大会すべてでゴールをあげた唯一の日本人選手[注 6]
来歴
ユース時代 - Jリーグ( - 1997年)

小学3年生、8歳のときに兄の影響で北新サッカースポーツ少年団に入団してサッカーを始めた[3]甲府市立北中学校3年生のとき、U-15(15歳以下日本代表)に選抜された。このとき指導していた中学校の監督は、関東選抜の一員であったがレギュラーではなかったため、落選するだろうと思っていたので、スタッフに選考理由を尋ねると「世界で戦うには、少しばかりのテクニックよりもフィジカル面の強さの方が大切。技術面では中田君より上の選手はたくさんいるが、フィジカル面の強さでは、彼はいいものを持っている。そこを評価した」と言われたという[4]。当時はFWとして登録されていた。U-16アジアユースで世界への第一歩を踏み出して以後は、全ての年代別日本代表に選出され、年代別の世界大会であるU-17世界選手権U-19アジアユースワールドユースオリンピック(23歳以下)には全て「飛び級」で出場した。オリンピックには19歳でアトランタオリンピック、23歳でシドニーオリンピックと、2回出場している。韮崎高校2年の時には第72回全国高等学校サッカー選手権大会に出場している。

Jリーグに加盟する全12クラブ(当時)のうち11クラブからオファーを受け[5]、その中から横浜マリノス横浜フリューゲルスベルマーレ平塚の練習に参加した上で、1995年ベルマーレ平塚に加入。翌年、ゲームメイクの能力を買われトップ下にコンバートされた。

1996年アトランタ五輪に出場し、後に「マイアミの奇跡」といわれるブラジル五輪代表戦勝利に貢献した。次戦のナイジェリア五輪代表とは、強化試合やU-17世界選手権(現・U-17W杯)で対戦していた中田は、勝てない相手ではないと判断。ハーフタイムには日本のDF陣に対して「もっとラインを押し上げてくれないと攻撃できない」と意見するが、前半、日本のDF陣は身体能力に物を言わせて攻めまくるナイジェリアに圧倒されており、中田英寿の意見は受け入れ難いものだった。それを見咎めた西野朗監督に叱責され、信頼を失って最終戦は外された。同じく下の世代から選出されたDF松田直樹も、実は中田と同じ意見であったが、世界を知らない上の世代には言ってもわかってもらえないと思い黙って見ていたという[6] 。同年のシーズンオフに、イタリアセリエAの名門ユヴェントスへ短期留学。期待したトップチームではなく下部での練習であったが、海外に目を向けていることを窺わせた。「平塚に行って良かったと思っています。平塚でプロを始めたから今がある。ペルージャに行くときにも、本当に気持ちよく送り出してくれた。」と語っている[7]。韮崎高校時代には「サッカーしか知らない人間にはなりたくない」と、資格取得にも挑戦した。

1997年に韓国との親善試合でフル代表に初招集され、先発デビューを飾る[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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