Wヤング
メンバー平川幸男
佐藤武志
元メンバー
中田治雄
別名ダブヤン
結成年1964年
解散年2019年
事務所吉本興業
現在の活動状況解散(死別)
受賞歴
上方演芸の殿堂入り(2020年)
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Wヤング(ダブルヤング)は、かつて存在した吉本興業所属の漫才コンビである。愛称はダブヤン。コンビは第1次Wヤング(平川・中田のコンビ)と第2次Wヤング(平川・佐藤のコンビ)の2期間存在する。解散を発表しないまま平川が死去したため、事実上の解散状態となっている。
メンバー
平川幸男(ひらかわ ゆきお、1941年10月5日 - 2019年11月11日[1]) 本名:平川 幸朗(ひらかわ こうろ)[1]。漫才師、歌手。立ち位置は右。
なんばグランド花月など定期公演でWヤングとして登場する時は「現役最高齢の吉本芸人」を自称していた。戦前に吉本の端席
高校卒業後住友銀行に就職するが、東映ニューフェイス第6期に合格して俳優デビュー。
その後、西川ヒノデショーのバンドメンバーとして活動する中、同メンバーの平川と出会う。
声質が上岡龍太郎か笑福亭仁鶴に似ていた。楽屋でやっていた野球賭博に手を出した事と事業の失敗で多額の借金を抱え、1979年10月25日、熱海の海岸で飛び降り自殺した[4][5]。41歳没。人気絶頂の最中での突然の死は多くの芸人に衝撃を与えた。発見現場近くの展望台には漫才の台本などが入ったカバンが残されており、便箋5枚に渡る「死出の旅」という遺書には「人はいさ心も知らぬ故里に死ぞ昔の香に匂ひけり」と辞世の歌が書かれていた。告別式の時には、平川は棺の前で「なんで死んだんや!」と号泣した。博打と事業で儲けようとしていたようだが結局は自分の意志が弱く、借金で追い詰められ最後は自決という形での最期を選んだのであった。事件の前には中田本人から借金の事を聞いた平川の主導で吉本興業に借金の肩代わりを頼んだりもしたが、その際中田は借金の正確な額をどうしても言い出せず、肩代わりしてもらった残りの分を返済するべく再度博打に手を出し、これが悲劇につながった。この事は現在でも賛否両論の声があり、また平川は「その時に借金全額を口に出せる勇気があったならこんな事にはならなかったのに」と語っている。また事件の後の11月1日には、母親の和嘉も国鉄巻向駅構内で線路を横断中に急行列車に撥ねられ亡くなっている(69歳没)。和嘉はワイドショー「独占!Wヤング自殺、涙の遺書初公開」を視た後に駅へ向かう途中だったという。なお、同じ中田姓の中田ダイマル・ラケット(本名・芸名共に中田姓)と師弟関係及び兄弟親子関係と思われる事も有った様だが、実際は師弟関係及び直接のつながりはない。「天国のスタア2006」や「なつかしの昭和爆笑漫才?天国の笑星?」では本名でテロップが出されていた。 中田は住友銀行に勤務。1956年に何気なく受けた東映ニューフェイスのオーディションに合格し役者を目指すもいい役どころに恵まれず断念(同期には里見浩太朗がいた)。1961年に映画の仕事で知り合った西川ヒノデ(「西川ヒノデショウ」という4人組のコミックショウのリーダー。メンバーの中に二代目西川サクラ
来歴