中田 廉
基本情報
国籍 日本
出身地大阪府大阪市
生年月日 (1990-07-21) 1990年7月21日(33歳)
身長
体重189 cm
96 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り2008年 ドラフト2位
初出場2010年7月16日
最終出場2021年6月16日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
広陵高等学校
広島東洋カープ (2009 - 2022)
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中田 廉(なかた れん、1990年7月21日 - )は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。旧姓は野林(のばやし)。
メディア出演や講演会依頼の窓口は日本電波制作社。 小学5年時に野球を始め、八尾ファイターズに入る。以来投手一筋。大阪市立長吉西中学校時代はナガセタイガース(ボーイズリーグ)に所属。中学3年生の時には関西選抜メンバーに選ばれる。この頃から最速137km/hを記録する速球派投手だった。 広陵高等学校に進学し、1年春から公式戦に出場した。1年秋には明治神宮野球大会で、2年生では第79回選抜高等学校野球大会でも登板し、広陵のエース候補筆頭だった。しかし同年夏の広島大会で不調となり、第89回全国高等学校野球選手権大会準優勝のメンバーに入ることはできなかった。同校の1学年先輩には野村祐輔、小林誠司、土生翔平、同学年には上本崇司がいた。 3年生になると再び頭角を現し、背番号3の投手兼一塁手として夏のメンバー入り。広島大会では主戦投手として活躍し、第90回全国高等学校野球選手権記念大会出場に貢献。1回戦の高知高校戦で先発し、90回大会では最速の148km/hを記録。チームは2回戦で横浜高校に敗退。打者としては高校3年夏の公式戦で31打数13安打10打点を記録した。 2008年10月30日に開催されたプロ野球ドラフト会議において広島東洋カープから2位指名を受け、11月17日に契約金7000万円・年俸720万円(金額は推定)で仮契約した。背番号は34。ドラフト指名時には「どこの球団でもいいと言っていたけど、カープが一番よかったです」と会見で述べ、涙を流した。 2009年は、体調不良でファームでも1試合の登板に留まった。 2010年は、体重を80kg前後に絞り、7月16日の中日ドラゴンズ戦でプロ初登板を果たした。また台湾で開催された第17回IBAFインターコンチネンタルカップの日本代表に選出されたものの、直前に左太もも裏肉離れの怪我をしたため、やむなく辞退した。 2013年は、後半に中継ぎとして一軍定着。クライマックスシリーズでの登板も経験した。 2014年は、チーム救援投手の中で唯一年間を通して一軍に帯同。6・7回を中心に、チーム事情によって8回での登板、回跨ぎをするなどセットアッパーとしてフル回転で活躍し、66試合78 2/3回を投げている。特に6月半ばまでは防御率0点台をマーク、磐石のリリーフ陣の一角を担った。 2015年は、右肩の故障により僅か5試合の登板だった。 2016年は、開幕からセットアッパーを任されたが結果を残せず、8試合の登板に終わった。シーズンオフには、背番号を前年まで廣瀬純が背負った26に変更した[1]。 2017年に再度一軍に定着。シーズン終盤に調子を落とし一軍から離脱するものの、前の投手がランナーを残した場面での登板を中心に、時に回跨ぎをこなすなど、縁の下から支えるリリーフとして優勝に貢献した。 2018年は、調子が上がらず、前年を大きく下回る15試合の登板に終わった。福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズでは中継ぎとして2試合に登板した。 2019年は、3年ぶりに登板数が一桁に終わった。 2020年は、3年ぶりに30試合以上(32試合)に登板した。11月17日に右膝の手術を受けた。 2022年は、一軍登板は無く、10月22日に戦力外通告を受け、現役引退を表明した[2]。 引退後の2022年12月17日に自身のツイッターを更新し、翌2023年には日本ボディビル・フィットネス連盟のメンズフィジーク180センチ超級の大会に挑戦することを公表している[3][4]。 2023年4月より、RCCラジオにおいて自身初の冠番組である「Veryカープ!中田廉の今夜もパンプアップ」が放送開始した[5]。
経歴
プロ入り前
広島時代
現役引退後
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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