中田久美
[Wikipedia|▼Menu]

中田 久美
Kumi Nakada


基本情報
国籍
日本
生年月日 (1965-09-03) 1965年9月3日(58歳)
出身地東京都練馬区
ラテン文字Kumi Nakada
身長176cm
体重62kg
血液型A型
選手情報
愛称クミ
ポジションS
指高229cm
利き手両利き[1]
スパイク305cm
ブロック289cm

獲得メダル

オリンピック
女子 バレーボール
1984バレーボール


テンプレートを表示

中田 久美(なかだ くみ、1965年9月3日 - )は、日本の元バレーボール選手(全日本女子代表)、指導者、タレント、スポーツキャスター。マネジメント契約先はビッグベン。元女子日本代表監督、プレミアリーグ久光スプリングス前監督。

日本リーグ、プレミアリーグ(Vリーグ)時代を通じて女子最多4度の最高殊勲選手賞受賞者である。
来歴

東京都練馬区出身。名前の由来は、誕生日(9月3日生まれ)から。一人っ子[2]

母親の助言もあって[3]練馬区立練馬東中学校入学後からバレーボールを始め[4]、2年生の時山田重雄の英才教育バレーチーム『LAエンジェルス』に2期生として入団。その関係からバレーボールに専念するため高校は通信制のNHK学園高校に通い卒業。中学校時代は、同期に生徒会副会長を務めていた尾崎豊がいた。

バレーボール漬けの環境で才能を開花させた中田は、1980年大谷佐知子と共に史上最年少の15歳(中学3年生)で全日本代表に選出され[5]、同年の日中対抗にセンタープレーヤーとして出場。直後に山田から素質を買われ、セッターに転向する[6]。翌1981年日立に進み、セッター転向わずか1年でスタメンを獲得。同年の日本リーグでは史上初の失セット0での全勝優勝に大きく貢献し、自身も新人賞を獲得した。なお、日本リーグ(現・プレミアリーグ)デビューは16歳3ヶ月で、2007年1月に15歳4ヶ月で岡山シーガルズのセッター堀口夏実が出場するまでは、最年少記録であった。

1983年からは日本代表でもスタメンセッターとなり、同年のアジア選手権では当時世界一の中国を破り、優勝を飾った。翌1984年ロス五輪でも銅メダルを獲得。

1986年9月、世界選手権で主将を務めた。11月、練習中に右膝前十字じん帯を断裂。再起不能ともいわれた大ケガだったが、リハビリを乗り越え10ヶ月後に試合に復帰。1988年2月、再び右膝を手術。しかし右膝は完治せず、試合の時は痛み止めの薬を手放せなくなる。同年ソウル五輪出場。

1992年バルセロナ五輪に出場。日本女子バレー史上初となる3度目の五輪出場を果たし、日本選手団の旗手も務めた。

バルセロナ五輪を最後に同年11月に一度は現役を引退したが、1995年に現役復帰、1996年にはアシスタントコーチに就任。1997年に日立を退社して以降、バレーボール教室など後進の指導や全国各地での講演、バレーボール解説者のほか、スポーツキャスター、タレントとして活動している。

2005年、父の定年退職と共に、長野県内に新居を購入し、東京都内から両親とともに移住[2]

2005年から翌年まで、日本バレーボール協会の強化委員を務めた。2008年、イタリアプロリーグセリエAヴィチェンツァのコーチに就任。日本人女子として初めて海外バレーボールチームの指導者となった。2009年、セリエA・ノヴァーラのアシスタントコーチに就任。

2011年9月、久光製薬スプリングスのコーチに就任し[7]、2012年7月1日付で監督に就任した[8][9]。2012年12月24日、都城で行われた天皇杯・皇后杯全日本バレーボール選手権大会の決勝戦では、昨年優勝の東レを下して優勝。監督就任1年目にしての快挙となった。その後、Vプレミアリーグ黒鷲旗全日本男女選抜大会も制覇し、女子チームで初めてとなる3冠を達成した[10]日韓Vリーグトップマッチ2012年ぎふ国体を含めると5冠となる[11])。

2016年10月25日、日本バレーボール協会理事会にて満場一致で[12]、バレーボール女子日本代表の監督に選出された(女性監督では生沼スミエ[注 1]に次いで2人目)[15]。これに伴い久光製薬では総監督となった。2017年5月、久光製薬を退部[16]

2021年7月まで女子代表監督に約5年間在任し、自国開催の東京五輪で1次リーグ敗退。結果を出せなかった失望感と無力感は想像以上に大きく、半年以上も自宅から出られない状態に陥ったという。2022年4月から「東京大学エグゼクティブ・マネジメント・プログラム」(東大EMP)に通学(2018年にいったん入学して中断していた)、2022年9月に首席で卒業。

2023年4月1日、V.LEAGUE DIVISION3に2023年秋から参入する、フラーゴラッド鹿児島のエグゼクティブ・ディレクター(ED)に就任[17]。また、同じく4月から筑波大学大学院の体育研究科(通学2年制の修士課程の社会人枠試験で合格)に入学)[18]
人物・エピソード

全日本に入った頃はセンタープレーヤー登録だった。セッター転向を持ちかけられたとき「私、全日本のセンターなんだけど?と思った」と当時の心境を告白している
[19]

本人談によれば、それまでは額の前で取るのが当たり前だったオーバーハンドパスを、額よりも高い位置で取り始めたのは中田が初だったといい、ブラジル代表のセッター・マウリシオも中田のスタイルに倣ったともいう[1]

1985年11月8日『一枚の写真』(フジテレビ)に出演。

1992年バルセロナ五輪に日本女子バレー選手として史上初となる3度目の五輪出場を果たしたが、試合に負けてしまうだけでなくメダルを逃してしまう結果となってしまい、あまりの悔しさに号泣しながらバレーコートを去っていった。

一度選手を引退してから結婚し、セミヌード写真集も発表して話題を集めたが、夫婦間のすれ違いから離婚。現在は独身である。

後述のエピソードや春高バレーの応援企画「コーチングキャラバン」での指導で選手を一喝する場面が多いためか、「恐怖」のイメージがついている。解説者の時に、試合内容に憤ったあまり、中継席にあったボールペンをへし折ったほどでもある[20]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:83 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef