中河与一
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中河与一
1949年
誕生 (1897-02-28) 1897年2月28日
香川県阿野郡坂出町(現・坂出市
死没 (1994-12-12) 1994年12月12日(97歳没)
職業小説家・歌人
言語日本語
最終学歴早稲田大学英文科中退
ジャンル小説・短歌
文学活動新感覚派
代表作『天の夕顔』
デビュー作『悩ましき妄想』(のちに『赤い復讐』と改題)
配偶者中河幹子、矢穂久仁子
子供中河原理
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中河与一 (なかがわ よいち, 1897年明治30年)2月28日 - 1994年平成6年)12月12日) は、日本の小説家歌人である。横光利一川端康成と共に、新感覚派として活躍した。正字で中河與一と表記される場合もある。中河哀秋という筆名も持つ。香川県生まれ。
概要

1924年に川端康成、横光利一らと『文芸時代』を創刊し、『刺繍せられた野菜』(1924)、『氷る舞踏場』(1925)を発表して、新感覚派の旗手としてモダニズム時代を築く[1]。代表作に『天の夕顔』『失楽の庭』『探美の夜』『古都幻想』など。なかでも1938年(昭和13年)に発表された『天の夕顔』はゲーテの『若きウェルテルの悩み』に比較される浪漫主義文学の名作として各国語訳され、西欧諸国でも高い評価を獲得。戦後、英語、フランス語、ドイツ語、中国語など6か国語に翻訳され、アルベール・カミュから激賞された。
経歴

坂出町(現在の坂出市)にて、代々の医家の長男として生まれる。本人によると、出生自体は東京で、坂出に住んだのは父親が同地で私立坂出病院を開業した2歳ころからだろうとしている[2]。病弱であったため、回復を黒住教のおかげに頼った母の手配で、6歳で母の郷里、岡山県赤磐郡潟瀬村大内(現・瀬戸町)に移り、小学校卒業まで祖父母に育てられる[3][2]。家業を継ぐことを嫌って文学に傾倒し、丸亀中学校(現在の香川県立丸亀高等学校)在学中には『香川新報』(現在の『四国新聞』)の懸賞小説に一等入選。京都で弟と暮らし、夜学校「漢数学館」にて数学を担当するも、潔癖症はなはだしく遂に狂人に近く、静養のため坂出町に帰る[3]。2年後、上京し、岡田三郎助の「本郷洋画研究所」に通う[3]

1919年早稲田大学予科文学部入学。1920年、同郷の紙問屋の娘で津田英学塾(現在の津田塾大学)の学生だった林幹子と結婚した。後年、幹子は歌人として立ち、歌誌「をだまき」を主宰して高瀬一誌蒔田さくら子を育てたほか、共立女子大学教授も務めた。

早稲田大学英文科在学中、雑誌「新公論」に発表した『悩ましき妄想』(のちに『赤い復讐』と改題)で文壇デビュー。1922年(大正11年)、歌集『光る波』を刊行。再び潔癖と幻覚に悩まされる日が多く、早稲田大学を中途退学する[3]。翌年金星堂編集部に勤務[3]菊池寛主宰の「文藝春秋」の編集同人、『文藝時代』の同人に加わり、『刺繍せられた野菜』『氷る舞踏場』など、新感覚派の作品群を残す。1926年上海蘇州杭州南京を旅する[3]。1928年から形式主義文学論争始まる[3]胃潰瘍で危篤になるも助かり、ラウル・デュフィに装幀画を依頼[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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