中江 利忠(なかえ としただ、1929年10月4日 - )は、日本のジャーナリスト。元朝日新聞社社長。 千葉県千葉市緑区出身。東京帝国大学文学部社会学科卒業。マルクス主義者で、在学中は終始、学生運動に携わっていたが、中江本人は、日本共産党には関わらなかったと言っている[1]。1953年4月に朝日新聞社入社。毎年1回目に行われるキャリア組の本社採用の試験には落第し、2回目に行われるノンキャリア組の地方採用の試験に合格しての入社だった[2]。初任地の静岡支局時代、ビキニ環礁で行われたアメリカ軍の水爆実験で、焼津漁港を母港とする遠洋マグロ漁船、第五福竜丸の被爆事件という歴史的大事件の発生を読売新聞に抜かれ[3]、「ビキニ抜かれの中江利忠(リチュウ)」という有り難くない異名を頂戴する。しかし日本のビッグ・リンカーといわれる元国際文化会館理事長・同盟通信社常務理事松本重治の又従兄弟に当たることから[4]元首相松方正義公爵一族に連なり(一族に元共同通信社専務理事松方三郎がいる)、朝日新聞社の上野社主家とも親戚で、元首相吉田茂の側近で終戦連絡中央事務局次長、東北電力会長などを歴任した白洲次郎や白洲の岳父樺山愛輔伯爵(元国際通信社社長)、元同盟通信社社長岩永裕吉(息子の岩永信吉
来歴・人物
1993年10月20日、かねてより朝日新聞社に強い不満を表明していた野村秋介らの来社を受け入れて話し合いの場を持った。野村は会談の場で「皇尊弥栄」を三唱後に拳銃自殺した。対応した朝日新聞社側の幹部が、中江のほか誰だったかは公表されなかった。
1996年11月、ジャーナリストの岩瀬達哉が『Views』1997年1月号で、リクルート事件発覚前の専務取締役時代に、リクルートの経営する会員制クラブで江副浩正会長の接待を受けていたことを明らかにした。
1989年から1996年まで日本新聞協会の理事を務め、そのうち1991年6月から1995年6月までは同協会会長を務めた。2007年に新聞文化賞を受賞[5]。ロシア文化フェスティバルの日本組織委員会委員も務めている[8]。
参考文献
佐藤朝泰『門閥 旧華族階層の復権』立風書房、1987年 ISBN 9784651700328
『注目! マスコミニューパワー東大社会学科卒 企業の、いま必要な発想がここに』Gaku Publisher、1989年 ISBN 9784847010811
朝日新聞社百年史編修委員会編『朝日新聞社史 資料編』朝日新聞社、1995年